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「結局、父は母が好きだったんです」阿川佐和子さんが語る、あの頃の味

  • 2023.5.4

タレントやエッセイストとして、幅広く活躍する阿川佐和子さん。3月に上梓したエッセイ集『母の味、だいたい伝授』(新潮社)では、とにかく食にうるさかった父・阿川弘之さんと、弘之さんに振り回されて日々料理を作っていた母、そして台所仕事を手伝わされていた自身の思い出をまじえて、食にまつわるエピソードをユーモアたっぷりに語っている。

食への好奇心は手伝いのたまものか、それとも遺伝? 本書の背景と阿川家の知られざるエピソードを伺った。

幼稚園の頃から「台所が安全圏」

――お母さまとの台所には、どんな思い出がありますか?

うちの父は食い意地が非常に張っていて(笑)、きょうだいも男ばかりでしたし、台所で母の手伝いをするのは娘の当然の義務だと小さい頃から思っていました。そういう時代だったのもありますね。誰かに言われたわけではないけれど、そうなんだなという雰囲気がありました。それに、私自身が台所の作業を面白いと思っていたのかもしれません。

初めてお米を研いだのは幼稚園の頃かな。母が「水が透き通るまで研ぎなさい」と言うのを律儀に守って、何十回も研いでいたんですよ。今は省略するようになったけど、大人になってからも周りによく「そんなに研いでどうするの」と言われました。他の人がどれくらい研ぐものなのか、知らなかったんですよ。

それから本にも書いたけれど、初めて糠味噌に手を突っ込んだのも幼稚園のときでした。母の真似をしてかき回していたら、父がやって来て「おい、この子は筋がいいぞ。糠味噌に手を突っ込むのを嫌がらないというのはいいことだ」とすごく褒められたんですね。いつも不機嫌な父が機嫌をよくしているのを見て、「台所にいれば安全だ」と思うようになりました。ただ、それですぐに料理好きになったわけではなくて、大きくなると、毎日父が「今日も美味いものを作ってくれ」「今日は何を食うのか」と言ってくるのがプレッシャーでしたね。

――でも、今ではすっかり料理を楽しんでいらっしゃいますね。ちらし寿司にトンポーロー、お母さまの思い出のレシピの再現など、さまざまな手料理がご著書に登場します。

父のように毎食とは言いませんが、「できれば美味しいものを食べ尽くして死にたい」という思いが強いです。たとえば野球の大谷翔平選手みたいに、他のことのために美味しいものを我慢する人生は絶対に真似できないですね。ご飯を「美味しいね」と喜び合える人と一緒に暮らしたいなと、昔から思っていました。

「美味しいものを食べたい」というのは、特別なものばかり食べたいということではないんです。たとえば、レストランでごちそうを食べていても、「このローストビーフを家に持って帰って、薄く切って醤油とからしをつけて、お味噌汁と美味しいお漬物と一緒に食べたらどんなに幸せだろう......」と考えます。特にローストビーフとステーキは、家で食べるに限りますよ。

"生き返らせ"術が腕の見せ所

――冷蔵庫の奥に眠っていた、いつのものかわからない食材を使って料理するエピソードも書かれていて、なんだか親近感が湧きました。

本質的にケチなんですよ。せっかく買ったこの材料を無駄にしたくない、少々腐ってても大丈夫だろう、って。食材を"生き返らせる"のが好きなんです。たとえば最近は、冷蔵庫から何の魚だかわからない大きな干物を見つけて、まず、あさりや野菜と一緒にアクアパッツァにしてみました。でも、骨が多くてあまり美味しくならなかったんです。そのあとベッドの中で「全部捨てるのはもったいないな」と考えて、翌日、他の具材は残して魚の骨と身の部分は捨てて魚だしのスープにしてみたら、これはすごく美味しくて。ほら、生き返ったでしょ。

――ご著書にも"生き返らせ"料理がいくつか登場しますが、カレーが特に印象的でした。

カレーには何でも入れちゃいますね。トムヤムクンスープの素、飲み残しのワイン、醤油、ウスターソース、生姜とニンニクをすりおろして入れるでしょ、それに冷蔵庫でしょぼくれていた椎茸、固くなって美味しくなくなったチーズ、それからだしがちょっと残ってたから入れちゃおうとか......いろんなものを入れると、深みが出てくるんですよ。でも、私も何を入れているのかわかってないから、二度と同じ味にはできません。

――『母の味、だいたい伝授』というタイトルですが、お母さまからレシピをきちんと教わってはいらっしゃらないのですね。2020年に亡くなった後、記憶をたどって再現する様子がつづられていました。

母の料理は台所で見ていたので、わざわざ教わろうとは思いませんでした。しかも、私には"加工癖"があって、何を作っていても自分好みにアレンジしちゃうんです。だから「だいたい伝授」です。

母がよく作っていた料理の一つが「鶏飯(とりめし)」なんですが、一般的にはそぼろご飯とか三色ご飯と言われるんですね。それをうちでは「鶏飯」と呼んでいました。鶏のスープで炊いたご飯の上に、味付けした鶏のひき肉、炒り卵、細く切ったきゅうり、薬味をのっけるんですけど、母は大皿の上に全部盛り付けていました。でも、食べ残しが汚くなるのが私は好きじゃなくて。コロナ禍で献立が尽きたとき、思い立って再現してみたんですが、具を全部別々の皿に入れて、各々好きなようにご飯にのせる方式にアレンジしたんです。「これは母よりも進んでいる」と思いましたね! 鶏飯は、子どもの頃は大好物でもなかったんですが、大人になって食べてみたらなかなか美味しくて感動しちゃいました。

父は、母に甘えていたんです

――毎日のように「美味いものを作れ」と言われながら台所に立ち、お父さまの胃袋を満足させていたお母さまですが、どんなお人柄だったのですか?

母は、明るくて素直な人でした。実家はそんなに裕福ではなかったけれど、大事にされていて、愛情には恵まれていたみたいです。5人きょうだいの末っ子で姉がいたからか、家庭がそういう方針だったからかはわからないですが、台所の手伝いはあまりしていなかったんですって。それを聞いて、私は驚愕しちゃいました。娘の義務じゃないの!? って(笑)。そんな母が、結婚した途端に毎日「美味いものを作れ」と脅されて、必死になって料理を勉強したわけですから、大変だったろうなと思います。

口うるさい父でしたが、父も末っ子なので、母はわがままを言って甘えられる存在だったんでしょう。たまに「しょうがないんだよ! 俺はわがままなんだから!」なんて言って怒るんですが、そりゃないだろ......と思ってましたね(笑)。あとは食事会のときなんかに、母が他の人と話しているのに父が「おい、お前、今おれの話聞いてたのか。聞いてなかっただろ」と怒ったりして。結局、母のことが好きだったんですよね。好きならもうちょっと優しくしなよと思いますけど(笑)。父が入院するときも、母に「お前もここに入院しなさい」と言ったり、「母さんと別々で死ななきゃなんないのかな」とこぼしたりしていました。そばにいてほしかったんですねえ。

――お父さまの愛おしい一面ですね。とはいえ、お母さまも阿川さんも振り回されっぱなしで、大変な日々だったはず。でも本書では、そんな思い出を明るく面白おかしく書いていらっしゃいます。

子どもの頃から、うちの苦労を友達に話したらみんな笑うんですよ。私は家を出て行こうかとまで思っているのに、「あーあ、また阿川ん家はこうだ」「どうせそのうち収まるんでしょ」みたいな感じで。そういう反応をされるとだんだん、ウケを狙って話すようになるじゃないですか。

人に笑ってもらうと、大変だったことも客観視できるようになります。「これごときで死ぬの死なないのってほどじゃないな」って。不幸だ! と思っても、いやいや、さっき甘いもの食べてたでしょ? 言うほど不幸かい? ってね。これは、自分が楽になる方法でもありますね。

終始笑顔で、あれもこれもとはずむように話してくださった阿川さん。お母さまから受け継いだこの明るさが、人生を美味しくする「隠し味」なのかもしれない。

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