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信長でも信玄でもない…三河平定後の家康が「決して裏切らない」という起請文を送った意外な同盟相手

  • 2023.4.30

1568年、徳川家康は甲斐の武田信玄と手を結び、今川家領国の遠江へ侵攻し勝利を収めたが、信玄との間にはすぐに亀裂が入り、関係は修復不可能に。4年後には信玄が大軍を派遣し家康が大敗を喫する「三方原の戦い」が起こる。歴史学者の黒田基樹さんは「信玄は家康が自分を裏切り、ある武将と同盟を結んだことに、ひどく腹を立てていた」と解説する――。

※本稿は、黒田基樹『徳川家康の最新研究』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

信玄と手を組んで今川領を攻略し家康は一人前の大名に

家康は、永禄11年(1568年)12月の侵攻から、同12年6月までのほぼ半年ほどで、遠江一国の経略を遂げた。これにより家康は、遠江・三河2ケ国を領国とする戦国大名に成長した。そしてこの遠江侵攻は、武田信玄と協同してのものであった。信玄は12月6日に駿河に進軍し、駿河経略をすすめた。

三河・遠江主要城郭図。平山優『徳川家康と武田信玄』をもとに作成(出所=『徳川家康の最新研究』より)
三河・遠江主要城郭図。平山優『徳川家康と武田信玄』をもとに作成(出所=『徳川家康の最新研究』より)

今川氏真が駿府から懸河城に没落したのも、この武田軍の侵攻をうけてのことであった。すなわち家康と信玄は、今川家領国に侵攻することを取り決め、ほぼ同時期に軍事行動を展開したものになる。そしてそれは、織田信長と信玄の取り決めによるものであった。信長は実際には遠江に侵攻できないので、家康がそれを担当した、というものであった。

侵攻に先立って、家康と信玄のあいだで、種々の取り決めを申し合わせた起請文が交換されたことであろう。そしてその「契約の証拠」として、家康から信玄に、家老筆頭の酒井忠次の娘が人質に出された。こうした段取りを経て、家康の遠江侵攻はおこなわれたのであった。

信玄は遠江を、家康が駿河を経略するという暗黙の了解

ところが侵攻開始から1カ月も経たないうちに、家康と信玄のあいだに不協和音が生じるのである。ところで両者の今川家領国への侵攻に関して、あらかじめ「川切り」による領土分割が取り決められていた、とする見解がある。これは江戸時代成立の史料にみえていることから、これまでそのことは信じられてきた。

しかし当時の史料をもとにした検討により、そうした取り決めがされていた形跡はなかったことが明らかになっている。そこでは家康も信玄も、ともに「手柄次第」(経略した者がその後の統治をおこなう)とされていて、信玄が遠江を経略することも、逆に家康が駿河を経略することも、互いに了解し合っていたことがわかった(丸島和洋「武田信玄の駿河侵攻と対織田・徳川氏外交」)。

にもかかわらず、侵攻開始から1カ月も経っていない、永禄12年(1569)正月初めには、家康は信玄の軍事行動に抗議している。武田家家老の秋山虎繁を主将とする武田軍が遠江に進軍してきていて、家康はその行動に抗議したのである。

しかしそれは、これまでいわれてきたような、遠江は家康の担当分であり、それを侵犯したため、といったことではなかった。経略は互いに「手柄次第」とされていたからである。家康が抗議したのは、武田軍の進軍が、すでに家康が経略した地域に対しておこなわれたためであった。

度重なる契約違反で家康・信玄の信頼関係はなくなる

しかも家康はこのとき、信玄が遠江領有を望んでいることを理由にかかげていた。家康としては、すでに遠江の大半の経略を遂げていた実績をもとに、遠江は徳川家の領国化したという認識にあり、そのため武田軍の行動を、遠江経略をはかるものとして非難したのであろう。

信玄はこの家康の抗議をうけて、謝罪した。これをうけて家康と信玄はあらためて起請文を交換することになり、2月16日には家康の起請文が信玄に届けられ、これをうけて信玄から家康への起請文が出された(『戦国遺文武田氏編』1367号)。

しかしその直後、両者のあいだで新たな外交問題が生じた。駿府近辺の安倍山で蜂起していた今川方と、武田家は和睦をむすんで人質交換したということがあった。これを知った酒井忠次は、武田家家老の山県昌景に抗議し、それについて弁明する書状が、同月23日に酒井に宛てて出されている(同前1369号)。

そこで酒井は、その行為を「最前の首尾相違」(以前の取り決めへの違反)として抗議したことが記されている。その内容は、互いに今川方と勝手に和睦しない、というものと考えられる(丸島前掲論文)。家康側にとっては、度重なる武田側の契約違反行為と認識されたのである。

一勇斎国芳『武田上杉川中嶋大合戦の図』
一勇斎国芳『武田上杉川中嶋大合戦の図』
家康は今川氏真を引き取った北条氏と和睦し信玄は激怒

ところが今度は家康が契約違反をおかす。今川氏真およびそれを支援する北条氏政と、和睦交渉をすすめるのである。「松平記」は3月8日に氏真に和睦を申し入れたことを記している。ただしこのことについて、いまだ当時の史料では確認できていない。

ともあれ和睦交渉は、基本的には今川家支援のため駿河に進軍してきていた北条氏政とのあいだですすめられ、5月9日には成立している。江戸時代成立史料にはそれ以前の日付を伝えているものもあるが、当時の史料で確認できるのは、その9日である。

そして15日に懸河城は開城し、今川氏真は北条家に引き取られ、北条方の武田方への最前線拠点になっていた駿河東部の蒲原城(静岡市)に移った。その後は沼津、次いで大平城(沼津市)へと移っている。氏真の懸河城出城の際は、酒井忠次が北条方に人質を出し、家康と氏政のあいだで起請文が交換されている。

しかも家康は、氏真と氏政に「無二入魂」を誓約したのであった。これは家康が氏真・氏政と停戦和睦を成立させたことを意味する。同盟関係まではいかないが、互いに「入魂」を誓約しあっているのだから、少なくとも停戦が成立したことは確実である。

信玄は「せめて北条と対決姿勢を取れ」と家康に要請

これは信玄との関係からすれば、明らかに契約違反であった。今度は家康が契約違反をしたのである。信玄はこれに抗議したに違いない。それだけでなく5月23日付けで、信長家臣に宛てて事情を連絡するとともに、信長の見解を問いただす書状を出した。

すでに信玄は、家康が今川氏真と和睦交渉を開始していることを把握した際に、和睦を工作していることは不審であり、そのことを信長はどう考えているのかと問いただしていた。ここではさらに、せめて家康に、氏真と北条氏康・氏政父子に敵対の態度をとるようはたらきかけることを要請している。信玄は家康のことを、信長の意見に従う人と認識していたので、信長に家康へ意見することを求めたのであった。

家康は信玄の抗議を無視してその宿敵・上杉謙信と結ぶ

しかしながら家康には、信玄との政治関係を改善する気はほとんどなかったようである。信玄との政治関係がこじれるようになっていた永禄12年(1569)2月18日に、家康は上杉輝虎の家老・河田長親に、前年の書状への返事を出している。

家康は同10年末頃に、家康と今川氏真との関係に関して輝虎に通信をはかり、同11年3月にそれへの返事をうけていたが、その後は放置していた。ところがここにきて、にわかに返事を出しているのである。これは信玄との関係悪化を見据えて、それと敵対関係にあった輝虎と交誼を結んでおこう、というものであったに違いない。

もっとも家康と信玄の関係は、表面的にはしばらく継続した。元亀元年(1570)正月の書状では、駿河で敵方に残っているのは花沢城(焼津市)だけになったことを報せたうえで、隣国の関係にあることをもとに入魂を求めている。同月に信玄が信長に出した書状では、家康が氏真・氏政と数度におよんで起請文を交換した事実を把握したことを報せたうえで、家康の行為を「大悪」と非難し、かつ信長が家康に援軍を派遣していることをなじっている(丸島前掲論文参照)。

歌川芳虎『元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図』(部分)
歌川芳虎『元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図』(部分)(写真=Wikimedia Commons)

そして家康と信玄の同盟関係は、同年四月を最後に確認されなくなっている。家康側近家臣で武田家への外交を担当した一人であった榊原康政(1547~1606)が、同じく武田家で徳川家への外交を担当していた土屋昌続に宛てた書状で、互いに同盟継続に尽力しあうことを申し合わせている(同前)。しかしこれをもって家康と信玄の通信は途絶えることとなる。かわりにみられたのが、同年8月における家康と上杉輝虎の同盟交渉の展開であった。

家康が謙信に宛てた起請文にはなんと書かれていたか

この時の輝虎は、織田信長と北条氏政と同盟関係にあった。信長と輝虎は、すでに永禄7年には同盟関係を結んでいた。輝虎と氏政の同盟は、信玄の駿河侵攻にともなって氏政から要請してきたもので、同12年6月に一応の成立をみていた。ただしその6月に、信玄は義昭・信長に輝虎との和睦周旋を要請し、信長はそれを容れて、輝虎に信玄との和睦を要請している。これは「甲越和与」と称されて、しばらく和睦交渉がすすめられたが、元亀元年3月に輝虎が氏政との同盟を確定したことにともなって、7月に武田家からの使者を成敗し、武田家との交渉を断絶させていた。これにより信玄は、北条家と上杉家と敵対関係になっていた。

大蘇芳年『芳年武者无類 弾正少弼上杉謙信入道輝虎』,明治16年
大蘇芳年『芳年武者无類 弾正少弼上杉謙信入道輝虎』明治16年

家康は、北条氏政とは和睦関係にあった。そのうえで輝虎に和睦締結をはたらきかけたのであった。交渉は家康側からおこなわれた。それをうけて8月22日付けで、輝虎は徳川家の外交担当の家老・酒井忠次と松平氏一族の大給松平真乗(親乗の子、1546~1582)に返事を出している。そこで、今後は申し合わせていく意向を示された。ここから具体的な同盟交渉が開始され、そして10月8日には、家康から謙信(輝虎の出家名、同年9月が初見)に宛てて起請文が出された。そこで家康が謙信に誓言約した内容は、次の2ヶ条であった。

一、信玄に手切れすることを家康は深く思い詰めているので、決して態度を変えたり裏切ったりすることはない。

一、信長と輝虎が入魂になるようできるだけ助言し、武田家と織田家(「甲尾」)の縁談についても破棄になるよう意見する。

ここに家康は、謙信との同盟を成立させたのであったが、それはまさに対信玄のための戦略によるものであった。家康はそこで、信玄とは手切れすること、信長と信玄との縁談を破棄させることに尽力することを誓言約したのである。

信玄との手切れを画策し強い恨みを買ってしまった
黒田基樹『徳川家康の最新研究』(朝日新書)
黒田基樹『徳川家康の最新研究』(朝日新書)

ちなみに信長と信玄との縁談というのは、信長嫡男の寄妙丸(信忠、1557~1582)と信玄五女の松姫(1561~1616)との婚約にあたる。それは信長と信玄の同盟の証しであったから、家康は、信長と信玄の同盟自体を破棄させたいと考えていたことがわかる。

こうして家康は、信玄との同盟破棄に踏み切った。家康がいつ、信玄に手切れしたのかは判明していないが、上杉謙信に起請文を出してしばらくのうちにはおこなわれたであろう。信玄はこのことをひどく恨みに思い、2年後に徳川家領国への侵攻を展開したことについて、「三ケ年の鬱憤を晴らす」ものと述べるのである。

信玄が、いかに家康の行為に腹を立てていたかがわかる。

黒田 基樹(くろだ・もとき)
歴史学者、駿河台大学教授
1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。著書に『下剋上』(講談社現代新書)、『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国北条五代』(星海社新書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』(以上、平凡社新書)、『お市の方の生涯』(朝日新書)など多数。

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