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【黒柳徹子】とても敬愛する画家の、堀文子先生

  • 2023.4.20
黒柳徹子さん
©Kazuyoshi Shimomura

私が出会った美しい人

【第12回】画家 堀文子さん

「徹子の部屋」のセットに飾られているものは、私の私物がほとんどなのですが、一番目立つところに飾られている絵は、「アフガンの王女」というタイトル。私がとても敬愛する画家の、堀文子先生が、私をモデルに描いてくださったものです。

私がこれまでに出会った人の中で、堀先生ほど観察力に優れたかたはいらっしゃいません。子供の頃は、本当は科学者になりたかったんだけど、当時は、女子が勉強して学者になるなんて、まだまだ難しい時代。10代の頃から、「自立して、自分の生涯を自分で設計する」ということを心に決めていらした先生は、女学校のときに、どこなら進学できるかを考えて、「絵なら」と思ったんですって。「美には女性としてのハンディはない」「絵なら、自分の思い通りの色を塗ることができるから」と。

それで、東京美術学校(現・東京藝術大学)に進学を目指したものの、当時は、女性は“女子”がついている学校にしか進学できなかったのです。それで、仕方なく女子美に進みました。でも、当時、女子美に進学する人たちは、大抵が良家の子女で、「自分の生涯を自分で設計する」なんて考えは毛頭なかったみたい。「女子美はいかがでしたか?」と私が質問すると、「バカばっかり……!」なんて。毒舌なんです(笑)。

人にどう思われるかなんて気にしない、思ったことはズバッと言う性格は、大正12年、先生がまだ5歳だったときの、関東大震災の経験によって形成されたところも大きかったといいます。というのも、周りが一瞬にして焼け野原になる光景を目の当たりにして、いざとなったら人間は一人だ、誰も頼れない、「世の末」を見た、と。そんなふうに感じたんだそうです。たった5歳で、その後、堀先生の残された言葉の一つ「群れない、慣れない、頼らない」ことの大切さを悟ってしまった。

40代でエジプトにヨーロッパ、アメリカ、メキシコへ放浪の旅に出かけ、70歳でたった一人でトスカーナ暮らしを始めたり。そのとき、イタリア語は全く喋れなかったというから驚いちゃう! なんの下調べもせず、「行ってから驚く」というのも、先生のモットーでした。一見自由気ままにも思えますが、先生にとって放浪することは、刺激の中に身を置いて、自分の中のまだ開発していない部分を目覚めさせる大切な行為だったのです。

あんまり、年齢のことにばかりこだわると、先生からお叱りを受けそうですが、私がとくに驚いたのは、81歳でブルーポピーを一目見るために、ヒマラヤに登ったこと。しかも、ロバに乗るために4キロ減量までして! ブルーポピーは、標高4000mから5000mのヒマラヤ山脈の岩場に、ひっそりと咲く幻の花です。ヒマラヤの中腹まではヘリコプターで入って行って、そのあとは自分の足で探したそうです。もうこれ以上登れないと観念したそのとき、ブルーポピーが突如現れ、初めてその可憐な花をそばでじっと見つめてみると、3本くらい群れて咲いていて、それが一株。一つ、咲いている株があると、近くのブルーポピーは、ひっこんじゃうことがわかったのでした。

「群れない、慣れない、頼らない」。

それは、まさにブルーポピーの姿だったのです。

ヒマラヤから帰った後、先生は、足を悪くして、遠出ができなくなってしまいました。そこで、高性能の顕微鏡を買って、今度はアトリエで微生物の絵を描き始めます。まるで、子供の頃なりたかった「科学者」の夢を叶えるように。

先生は、見た目は上品なのに、気持ちのいいくらいの毒舌(笑)。先生ほど行動力があって、物事をよく見ていて、ズバッと切り込む一言が面白いかたに私は会ったことがありません。後年、先生の最後の人物作品になった、「女王──頂点に立つもの──の孤独」というタイトルの絵のモデルもさせていただいています。その絵は、少女が長椅子に座っている絵だったのだけれど、題名通り、女王の孤独さが、若さの中に滲み出ていました。

先生は、2019年2月に100歳でお亡くなりになりましたが、いくつになっても、「年の割にお元気で」なんて言われることを、とても嫌がっていらした。その気持ち、私もすごくよくわかります(笑)。でももっと共感するのは、先生が「今でも私は、子供のときの続き」とおっしゃっていたことなのです。

【左】画家・堀文子さん、【右】黒柳徹子さん

画家

堀文子さん

大正7年、東京市麹町区生まれ。女子美術専門学校師範科日本画部卒業。昭和14年に新美術人協会第2回展に初入選。昭和27年、第2回上村松園賞受賞。28歳で外交官と結婚し、42歳で死別。昭和62年から5年間、イタリアと日本を往来し、以後、アマゾン、メキシコ、ヒマラヤと精力的に旅を続けた。2019年没。

─ 今月の審美言 ─

「とくに共感したのは、先生が『今でも私は、子供のときの続き』とおっしゃっていたことです」

取材・文/菊地陽子

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