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【もしもの朝鮮王朝】王妃になった張禧嬪が謙虚だったら歴史はどう変わったか

  • 2023.4.2

19代王・粛宗(スクチョン)の妻であった仁顕(イニョン)王后が長く病気を患ったあとに亡くなったのは1701年8月のことだった。その後、淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)が粛宗に対して張禧嬪(チャン・ヒビン)を告発した。

この時すでに張禧嬪は粛宗の寵愛を失っていた。それでいながら仁顕王后を呪詛(じゅそ)することを繰り返していた。そのことを淑嬪・崔氏から聞かされた粛宗は、1701年9月になってから張禧嬪を激しく非難するようになった。

その時の粛宗の言葉が「朝鮮王朝実録」に残っている。

果たして粛宗は何と言って張禧嬪を非難したのか。

「王妃に対して一回もお見舞いに来なかったばかりか王妃のことを呼び捨てにまでして、邪悪な人だ、と言いふらしていた」

「張禧嬪は隠れて神堂を建てていかにも怪しげな者たちと一緒に祈祷(きとう)をして不穏な動きをしていた」

「張禧嬪の罪は本当に明らかだ。それなのに何もせずに罰しないというわけにはいかない」

このように粛宗は張禧嬪を非難した上で「自害させよ」と命じたのである。

『トンイ』ではイ・ソヨンが張禧嬪を演じた
身を滅ぼした張嬉嬪

張禧嬪はかつて粛宗の後継ぎとなる世子を1688年に出産している。さらには1689年には仁顕王后の廃妃にともなって王妃まで昇格している。しかし淑嬪・崔氏の存在が彼女の運命を変えた。粛宗は淑嬪・崔氏を熱愛するようになり、張禧嬪は遠ざけられた。その末に、1694年に仁顕王后が王妃に復帰して、張禧嬪は側室に降格となった。

思えば、張禧嬪が絶頂だったのはまさに側室から王妃にあがった1689年であった。その時に王妃にふさわしい言動をしていれば、彼女は粛宗の寵愛を失うことがなかったかもしれない。それなのに王妃になった瞬間に張禧嬪はわがまま放題にふるまい、結果的に王宮の中で評判が最悪になってしまった。それが、粛宗が彼女を遠ざける理由になったのだ。

もしも張禧嬪が謙虚になって王妃にふさわしい言動をしていれば歴史は間違いなく変わっていた。結果的に、張禧嬪はわがままな態度によって身を滅ぼしたのである。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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