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「2週間続いた攻撃で隣人は地下で餓死した」ジャーナリストが激戦地ブチャで見聞きした市民の痛ましい犠牲

  • 2023.4.1

ロシアによる侵攻で多数の市民が殺されたというブチャ。2022年4月、ウクライナが奪還した後、現地へ入ったジャーナリストの佐藤和孝さんは「ロシア軍による虐殺と断定することはまだできないが、ブチャでは銃で殺害されたと見られる家族6人の遺体が重なり合うように倒れている現場を見た。生き残った人たちも生活を破壊された」という――。

※本稿は、佐藤和孝『ウクライナの現場から』(有隣堂)の一部を再編集したものです。

砲塔が吹き飛んだ戦車の残骸(2022.4.4)
砲塔が吹き飛んだ戦車の残骸(2022年4月4日)
首都キーウでも郊外の街が爆撃される音が聞こえた

ウクライナの首都キーウ市内で取材していたころ、1日に4~5回は空襲警報が鳴って、砲声が北や西から聞こえていたし、遠くに曳光弾えいこうだんの光の筋が飛んでいった。ロシア軍とウクライナ軍が激しく戦ったのが、西に30キロほどに位置するキーウ州ブチャである。車で順調に走れば、約30分ほどである。キーウ中心街にまで響いてきていたのは、ブチャやイルピンを含むこうした周辺の交戦地域のものだろう。

人口3万人ほどのこの都市では、「ブチャの虐殺」と呼ばれる住民の大量虐殺があったとされる。「あったとされる」として断言しないのは、ロシア当局が関与を一切否定しているからだ。先に紹介したウクライナ検察の発表も、「410人の民間人の遺体が発見された」としか言っていない。ロシア兵がやったと断定するには、殺人事件でいう「検死」が必要だからだ。

ブチャに入って、私自身も、銃殺されて焼かれた遺体が、袋にも包まれずに放置されているのを目撃した。さらに多数の遺体が埋められていた事実もあり、焼くとか埋めるという行為が虐殺の証拠隠滅のためだとは想像はできる。ただこの文章を書いている現段階でも調査・検証中であり、ロシア軍の仕業と断定することはまだできない。

ブチャと周辺都市で行われた破壊と残虐行為

ブチャに取材で入ると、ウクライナ警察の立ち合いで6人の遺体が重なり合うように倒れている現場を見た。銃で殺害された全員が40代以下の家族だろうという。しかも証拠を隠ぺいするためか、燃やして黒焦げにされているのだ。

住宅の破壊の状態も、これまで見た中でもっともひどい。壁の上半分から屋根までが吹き飛ばされた家から、窓ガラスが割れ、子どもの遊具が家の前に並べられたままの家もある。退避するにしても、よほどあわてて自宅から逃げることになったようだ。

道路には、ロシア軍の焼けただれた戦車の車列が長々と続いていた。街に入らないようにウクライナ軍に食い止められ、破壊されたのだろうか。

生き残った住民たちに話を聞くことができた。

生き残ったブチャの女性たちの手は垢だらけ

ある女性は、爆撃音や銃撃音が一日中響き、家の廊下に隠れて過ごしたという。戦車が家の庭にまで入って来て、住宅を破壊する様子を見たと話す人もいた。食べ物も底をつき、自宅の地下でずっと過ごしたという人、地下に避難した隣人が餓死していたと語る人もいた。攻撃は2週間にわたって24時間休みなく続いたという。

ブチャでは、インフラの90%以上が破壊されたと聞いた。ある市民に、「水はどうしていましたか?」と尋ねると、「うちは井戸があったから大丈夫だった」と答えが返ってきた。取材した時期はまだ小雪が降るような寒さだったが、暖房も使えず、寒さに耐えながら過ごしたという。食糧は備蓄してあったので、なんとか大丈夫だったとのことだった。

ブチャの女性たちに会って印象的だったのは、みな顔はきれいに洗顔していたが、手を見ると一様に垢だらけの人ばかりだった。シャワーを浴びることができないのだ。ある女性は、寒い中で驚くほど薄着で取材に応じてくれた。自宅の中でロシア兵に見つからないように、ひたすら身を隠して住んでいたということだ。

ホストメリ市では400人以上の遺体が行方不明に

私自身は行かなかったが、ブチャからさらに北西25キロのボロジャンカという町は、ブチャ以上の被害を受けたとされる。砲撃により倒壊した大規模集合住宅の下に、何百人という住民が埋まったままの場所が残っているという。銃を持って自宅に押し入ったロシア兵に、子ども部屋から何から滅茶苦茶にされた話、瓦礫の下敷きになった人を助けようとすると、ロシア兵に「やめろ!」と銃を向けられた話などを聞かされた。

また人口わずか1万7千人ほどのホストメリ市は、国際貨物空港であるアントノフ国際空港があり、開戦当初にロシアの空挺くうてい部隊が電撃的に占拠したものの、ウクライナ軍に包囲されて全滅した激戦地だ。しかし、軍が交戦しただけではなく、住民も多数犠牲になった。しかも解放されるまでの35日間で、400人以上の「遺体」が行方不明になっているという。地元当局は、ロシア軍が残虐行為の証拠を隠滅するために、どこかに遺体を持ち去った可能性があると指摘する。

名前が知られているイルピン、ブチャのほかにも、その周辺の小さな町や村落でも、市民の住宅やインフラ設備への破壊行為、住民に対する残虐行為は枚挙にいとまがないほど行われていたのである。

飢えたロシア兵は食料を略奪してから店を破壊

ブチャで、スーパーマーケットを取材した。

砲撃を受けてぐちゃぐちゃになっている店内には、商品の残骸がまったくない。ロシア兵が事前に押し入って略奪していったのだろうか。ここではないが、キーウ近郊の店内を荒らす映像が防犯カメラに残っていることからも想像できる。

ロシア軍は補給が不十分であるため、占拠した先の食料を奪うことで空腹を満たしていたのだ。他でも聞いたが、自宅に入ってきたロシア兵が「食い物はあるか」と言ったという話はブチャでもあった。破壊行為や残虐行為の前に、先立つものは食べものである。

佐藤和孝『ウクライナの現場から』(有隣堂)
佐藤和孝『ウクライナの現場から』(有隣堂)

しかし、腹が満たされれば、ロシア兵は一般市民の住宅でも略奪行為を始める。ある集合住宅では、住民全員がシェルターのなかに押し込められ、「外に出たら殺す」とクギを刺された。その間に各戸を回り、貴重品などの金目のものを物色し、奪い去った後は滅茶苦茶に破壊していくのだ。

ロシア軍が去った後も、ブチャの住民の食料難は深刻だった。ボランティアが入ってパンの配給などを始めていたが、一つのパンに多くの住民が手を伸ばして欲しがっていた。私が入ったのはロシア軍が撤退してから間もなかったため、今では食料事情はずいぶん改善しているだろう。ウクライナの冬は厳しい寒さに見舞われる。ロシア軍は継続してウクライナの電力施設など市民生活に必要なインフラに、ドローンや巡航ミサイルで執拗しつように攻撃を仕掛けている。

生き残ってから、「生き続ける」戦いが待っている。

見たこともないような大量の戦車の残骸

ブチャの街では、住宅街に破壊されたロシアの戦車の残骸がたくさん見られた。アメリカの歩兵携行式多目的ミサイル「ジャベリン」や歩兵用の対戦車ロケット砲が十分に供与され、一気に劣勢の戦局が挽回された時期にやられたのだろう。

今回のウクライナ侵攻で、ロシアは大量の戦車を投入したが、ミサイル攻撃を受けると上部の砲塔部分が吹き飛ぶため、「ビックリ箱」と揶揄された。ロシアの戦車は、なるべくコンパクトに作って被弾のリスクを回避し、さらに鉄道で数を輸送できる便を図った設計思想のため、とくに砲塔が弱いという。

欧米の戦車なら「ビックリ箱」にならないと断言はできないが、これまで40年以上にわたって世界の戦場や紛争地域を取材してきたが、ブチャでもイルピンでもこれほど大量の戦車の残骸を目の当たりにしたのは初めてだった。

1台1億円以上する戦車はコスパが悪い

戦車という兵器そのものが、今の時代の戦争に合わなくなってきているのではないかと考えさせられた。

戦車は1台1億数千万円から10億円する上に、乗員が最低3名は必要だ。今回の戦争で有名になったアメリカが供与した歩行携行式多目的ミサイル「ジャベリン」は、6820万円である。砲弾は一発1700万円と高価だが、これは射手と弾薬手の歩兵2名で運用できる上、講習を受けてまもない射手でも90%以上の命中率を出せるという。武器としてのパフォーマンスは、比較にならない。

また、ドローンによる真上からの攻撃も、戦車には有効である。戦車の砲塔の部分は真上から攻撃されることを想定しておらず、装甲が弱い。商業用のものを改造したウクライナ製ドローン「R18」の戦果が話題となった。

「ロシアを擁護するかNATOと協調するか」と迫られる

今回のウクライナ取材では、ジャーナリストがロシア軍の手にかかって死亡する事件もあった中、直接に身に危険がおよぶような状況には陥らずにすんだ。しかし、私がこれまでに取材してきた戦場と明らかに違うのは、これが地域紛争ではなく、第3次世界大戦にもつながりかねない世界史の大転換の現場だったことだ。

イラク戦争でもアフガン戦争でも、大国が直接介入した戦場はいくつもあった。しかしこの戦争は、当事者間の問題にとどまらず、世界中の国々に「ロシアを擁護するか、NATO諸国と協調するか」の二者択一を迫っている。「専制主義か、自由主義か」の選択といってもいい。直接は手を下さないまでもウクライナへの武器供与や支援は、かかわっている国の多さからいっても「世界大戦」といえる規模になってしまっている。

私はブチャの取材を終えると、4月9日には国境を越えてポーランドに戻った。日本には4月13日に帰国し、3月4日に日本を出てからの40日におよぶ取材を終えた。

佐藤 和孝(さとう・かずたか)
ジャーナリスト
1956年北海道帯広市生まれ。横浜育ち。ジャパンプレス主宰。山本美香記念財団代表理事。24歳よりアフガニスタン紛争の取材を開始。その後、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、アメリカ同時多発テロ、イラク戦争などの取材を続け、2003年にはボーン・上田記念国際記者特別賞を受賞。著書に『アフガニスタンの悲劇』(角川書店)、『戦場でメシを食う』(新潮新書)、『戦場を歩いてきた』(ポプラ新書)、『タリバンの眼』(PHP新書)など。

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