1. トップ
  2. おでかけ
  3. 「王冠を捨てた恋」ウィンザー公がシンプソン夫人と暮らしたパリの邸宅、一般公開へ

「王冠を捨てた恋」ウィンザー公がシンプソン夫人と暮らしたパリの邸宅、一般公開へ

  • 2023.3.29
  • 6202 views

ブローニュの森の近くにある邸宅は、20世紀に世間をおおきく騒がせた有名カップルが住んだ場所。人気テレビドラマ「ザ・クラウン」にも登場した。修復作業を経て2024年に一般公開される予定だ。

ヴィラ・ウィンザーはもともと19世紀のフランスの政治家、オスマン男爵の夏の別荘として建てられた。photography: Getty Images

ヴィラ・ウィンザーはパリのブローニュの森のはずれにあり、サルコジ元フランス大統領夫妻の住まいから車でわずか15分、そしてルイ・ヴィトン財団美術館からわずか3分のところに位置する。ここが有名なのは「ザ・クラウン」シーズン5でもとりあげられていたように、20世紀にひときわ華やかでスキャンダラスだったカップル、エドワード8世とウォリス・シンプソンが亡くなるまで暮らした場所だからだ。

イギリス元国王の住居

1936年12月、イギリス国王エドワード8世は2度の離婚歴のあるアメリカ女性、ウォリス・シンプソンと結婚するために退位する。代わりに突然即位することになったのは弟のジョージ6世、すなわちエリザベス女王の父だ。元国王のほうは、お気に入りだった邸宅、イングランド南東部サリー州にあるフォート・ベルヴェデーレに住めなくなり、国外に新居を求めることになる。「ポワン・ド・ヴュ」誌によると、ウォリス・シンプソンは1937年、元国王に対し、「あなた、ここを離れたいわ。自分の家が欲しい。結婚してあなたと住みたいの」と手紙に書き送っている。この時ウォリスはマスコミの目を逃れてカンヌの友人宅に身を潜めていた。そして最愛の人、ウィンザー公爵(エドワード8世退位後の称号)と一刻も早く結婚したいと思っていた。

1937年6月3日、ふたりはついにフランス中部のトゥール市近郊のカンデ城で挙式し、数ヵ月後には南仏カップ・ダンティーブにあるクロエ城を借りて住む。しかしながら第二次世界大戦が起こり、この地を離れざるを得なくなる。ふたりがフランスに戻るのは戦後になってからだ。パリに戻ったウィンザー公爵夫妻は、シュシェ大通りの仮住まいを経て1953年、パリ市が所有する邸宅、16区のはずれにある「シャトー・ル・ボワ」に落ち着く。ここがのちに「ヴィラ・ウィンザー」と呼ばれる場所だ。ふたりが支払った家賃は名目にすぎず、月額たった50ドルだったと噂されている。

オスマン男爵からドゴール将軍へ「シャトー・ル・ボワ」はシャンダントレヌマン道路4番地、すなわちブローニュの森のはずれ、バガテル公園の隣にあった。オスマン男爵の夏の別荘として1859年に建築家ガブリエル・ダヴィウが設計した。1890年代には、フランス自動車クラブのクラブハウスとして使用されたこともある。第二次世界大戦後、ロンドンから帰国したシャルル・ド・ゴール将軍がここを本拠地とし、近隣の噂では、某アドルフ(ヒトラー)の車が保管されていた時期もあるらしい。

 

華やかな社交の場

ウィンザー公爵夫妻は内装をインテリアデザイナーのステファン・ブーダンに委ねた。彼はパリの名だたる室内装飾事務所、メゾン・ジャンセンの所長で、ジャッキー・ケネディの依頼でホワイトハウスの改装も手がけた。ロココ調の手すり、錬鉄製の大階段、エキゾチックなフレスコ画の天井、貴重なオブジェ、バスルーム、大理石や木を用い、バスルームを併設した寝室等......夫妻らしい空間の誕生だ。無論、バッキンガム宮殿のような壮麗さはないが、エドワード8世とウォリス・シンプソンは小宮廷さながらの暮らしを営み、ヘア係やメイク係ら20名以上の使用人が仕えていた。「ザ・クラウン」シーズン5で脚光を浴びた執事シドニー・ジョンソンもそのひとりだ。

中国趣味のプリント壁紙が貼られたダイニングルームで夫妻は本格的なパーティーを開催し、パリ中の人々が集まった。マレーネ・ディートリッヒ、アリストテレス・オナシス、エリザベス・テイラー......「このパリの家はフォーマルな場所ですが、おもてなしはとてもインフォーマルです」と、元国王は回想録で述懐している。

1972年5月28日、ウィンザー公は、姪のエリザベス女王に母国での埋葬を約束させた後、ブローニュの森の邸宅で息を引き取った。葬儀が終わると、ウォリス・シンプソンは「ヴィラ・ウィンザー」に戻り、1986年4月24日に亡くなるまで14年間、孤独に暮らした。その死後、思い出の品々や家具などすべてが家から運び出され、研究費の資金としてパスツール研究所へ遺贈された。

モハメド・アルファイドが長期賃貸

ウィンザー公爵夫妻亡き後の邸宅に興味を持つ人物がいた。エジプトの大富豪、モハメド・アルファイドだ。「すべての調度品を元の場所に戻す」という奇抜なアイデアでパリ市議会を説得し、1986年に年間100万フラン(約15万ユーロ)でこの邸宅の賃貸契約を結んだと2021年に仏版「ヴァニティ・フェア」誌が報じている。

それから10年経ち、ある王族がこの邸宅を訪れた。ダイアナ妃だ。チャールズと離婚した 「ハートのプリンセス 」はモハメド・アルファイドの息子、ドディとここで暮らすことも考えていた。イギリス王室の鼻を明かすには格好の場所だ。1997年8月30日、ル・ブルジェ空港に降り立ったふたりは「ヴィラ・ウィンザー」に向かい、小一時間を過ごして「大ホールや14室あるベッドルーム、広い敷地を巡った」と「ヴァニティ・フェア」誌にある。ふたりはその後、パリ中心部にあるホテルリッツに向かい、結局、ダイアナ妃とドディが「ヴィラ・ウィンザー」で暮らすことはなかった。見学した翌晩、ふたりはアルマ橋の下で交通事故に遭い亡くなってしまったからだ。悲劇の夜から25年が経った。モハメド・アルファイドの賃貸契約はいまも続いていると言われる。

しかしながら先週、「フィガロ」紙の報道によると、パリ市議会は複数候補を検討した結果、この場所の管理をマンサール財団に委ねたことを発表した。フランスの文化財保護を使命とするマンサール財団は2024年までに邸宅およびガレージを含むすべての付属施設の完全な改修をおこなうことを約束している。改修後は一般公開される予定だ。

【写真】ヴィラ・ウィンザーを訪れて

1974年のヴィラ・ウィンザー。

photography: Getty Images

1964年、ウォリス・シンプソンは「ヴォーグ」誌の写真家ホルスト・P・ホルストに自宅撮影を許可した。

photography: Getty Images

エントランスホール。

photography: Getty Images

ウィンザー公爵夫妻は中国趣味や木の調度品を好んだ。

photography: Getty Images

邸宅のリビングルームのひとつ。

photography: Getty Images

内装はインテリアデザイナーのステファン・ブーダンが手がけた。

photography: Getty Images

リビングルームに飾られたウォリス・シンプソンの肖像画。

photography: Getty Images

14室あるベッドルームのうちの1つ。

photography: Getty Images

2階からエントランスホールを撮影。

photography: Getty Images

元記事で読む
の記事をもっとみる