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高いものに触れることの価値は、「縦の消費」ができること |りょかちのお金のハナシ#16

  • 2023.3.13
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高いものに触れることの価値は、「縦の消費」ができること |りょかちのお金のハナシ#16

エッセイスト・ライターとして活躍するりょかちさんが、“お金にまつわるエピソード”をお届けする本連載。今回は、高いものに触れることの意味や価値を改めて考えます。

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「若い頃から高いものに触れることには価値がある」という言葉を何度か聞いたことがある。

これまでに何度か背伸びしたレストランなどに行ったことがある私としても、同意する言葉だ。私が幼い頃には、この言葉を基に、親がいいレストランに連れて行ってくれたり、いい服を着せてくれたりしたこともある。

一方で、使うのが難しい言葉でもあるなと感じる。そりゃ誰しも、できることなら高いものを消費してみたいだろう。そこに加えて、「高いものを消費するのには価値があるんだよ」とわざわざ強調することは、誰かのコンプレックスを刺激するかもしれない。それに、その言葉によって「高いものに触れてない人はよろしくない」みたいに誰かを責めることはしたくない。あくまで「高いものを消費すること」は “nice to have” (なくてもいいけどあったらいいな)だから。別に絶対にやるべきことなんかじゃないのだ。

それではどうして、「高いものを消費するには価値がある」のか。

誰かに想いを伝えるときに少しでも誠実であるために、どうしてそうなのか考えてみることにした。よくよく考えてみると、あんまり理由を考えたこともなかった気がする。

「高いものに触れる」がくれるもの

あらゆる領域で「高いもの」を消費しているわけじゃないけれど、時々そういった機会に恵まれた経験から思い出してみると、高いものを消費することにはたくさんのメリットがある。だからみんな「○○だから、高いものに触れようね」と断言しないのかもしれない。

たとえばモノづくりであれば、「これだけこだわって丁寧につくっているんだ」とプロの仕事に出会うことができる。食事であれば食材や温度やサービス、ファッションであれば縫製など。“トップランナーのこだわり” や“トップクラスの世界”を知ると感動するし、それは一般人の常識を超えてくる。その、自分の予想を超えた「こだわり」を知ることができるのは、大きな価値だろう。

逆に、「高いものってこんなものなんだ」というのがわかるのも、いいところかもしれない。なんか “よく知らんけどすごいもの” って、とにかくものすごく素晴らしく見えがちだ。それも途方もなく。だけど、その “すごそうなもの” がどんなものか知ることで、無駄に怖がることがなくなる。知らないから怖いというのは、脳みそが起こす厄介な反応だ。

高いものの素晴らしさを知って過剰評価せず、ただ認めることができれば逆に、まっすぐに安いものを見つめることもできて「安くてこんなに満足させてくれるってすごい!」と素直に感動できたりもする。

「松屋」が大好き。高いものを知れば知るほど、安さとうまさのバランスにリスペクトが募る

あるいはそれに付随して「高いから素晴らしいのだ」という呪縛から解放されるところもいい。「高いもの」であっても、反りが合わないこともある。着心地が肌に合わない、とか。味が好みじゃない、とか。値段がつりあがるこだわりには複数の方向性があって、一部には高い理由を理解できないものもある。だからこそ、「高いからいい」ではなくて、さらに解像度を高くして「このこだわりが好き」に出会える瞳を持てる。

手頃な価格のものに普段触れているということを前提として、高いものに触れることは、自分の消費を「縦に拡張する」ということだ。そして、高いものに複数触れれば、高いものの中での消費を「横に拡張する」ことができる。

だからこそ、高いものに触れる前は「高いものはいい」という、両極に「良し」「悪し」しかない直線的な解像度だったものが、複数高いものに触れることで「高いものってここがいい」「高いものにもいろいろある」と、平面的・立体的に対象を味わえるようになるのではないだろうか。

そう考えると、高いものと安いものを縦横無尽に消費することは、どこか旅先で歩きながら頭の中の地図をつくることにも似ているように思う。

好奇心をエンジンに、地図を広げるように消費を楽しもう

旅先で、歩きながら頭の中の地図を拡張していく経験はあるだろうか?

この通りの向こう側にはこんな景色が広がっていたんだ。さらにここを右に曲がると花屋さんがある。その3つ向こうのブロックまで歩いたら、また全然雰囲気が違う。

そんなふうに、少しずつ街を縦と横に歩いていくほどに、その土地の構造を理解していく。それは、歩きながら頭の中に地図をつくっていく作業のようだ。

支払う値段を増やして消費することは、その「向こう側まで歩いてみる」縦方向の冒険に似ている。そして、同じ値段帯で違った趣のものを消費することは、「あちら側に進んでみる」横方向の冒険だ。だから、縦横無尽に価格帯や趣味を変えて消費することは、歩いて巡る旅のようなもののように感じる。歩いてみれば、その場所の知識と経験が手に入る。「向こう側」が「この景色」に変わる。歩けば歩くほど、全体構造が見えて、その街を楽しむ視点が増える。

素敵な街に東京や京都、パリやソウルがあるように、「高いもの」を投資してみる領域もさまざまある。私は、食べることが好きだから、グルメに関しては少し縦横に幅がある地図が頭の中に広がっている。

「若いうちから高いものに触れること」はいいことだ。「頭の中の地図」がたくさんある人生は楽しい。それは間違いない。だけど一方で、それは「地図が広がる」ことでしかない。

興味がないなら無理してどこでも地図を広げてみなくてもいい。まずは「横に」から地図を広げてみてもいい。もしチャンスが転がっていたら、あるいは、歩いてみたい街があったなら、一歩踏み出してみればいいと思う。

「いい経験になるから」という理由で旅をしてみても面白くない。せっかく自分で高いお金をかけるなら、何より大事なのは「これはいい経験になる」という期待よりも、「どんな景色が広がっているのだろう?」という興味を抱くことだろう

なにせ、地図を広げるのが縦にしろ横にしろ、その景色を楽しむには、好奇心が必須なのだ。「消費の旅」をする時にはぜひとも、未来に残る経験を得ることではなく、目の前の景色にただ感動することに集中してみてほしい。

そうすることできっと、「縦」と「横」に進んで見えた景色は、もっと面白く、鮮明に、意味深くなるのではないだろうか。

ハイブランドの展示も好き。こだわりに感動するけど、体感するのはもう少し歳をとってから、かな
りょかち

1992年生まれ。京都府出身。神戸大学卒業。学生時代より、ライターとして各種WEBメディアで執筆。「自撮ラー」を名乗り、話題に。現在では、若者やインターネット文化について幅広く執筆するほか、企業のコピーライティング制作なども行う。著書に『インカメ越しのネット世界』(幻冬舎)。朝日新聞、幻冬舎、宣伝会議(アドタイ)などで記事の連載も。

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