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AIが書いたレポートを見抜ける自信はないが…慶大教授がChatGPTの登場に「まったく心配ない」と言い切る理由

  • 2023.3.11

レベルの高い文章を自動で作成し、検索にも使えるChatGPT。慶應義塾大学のビジネススクールで教壇に立つ清水勝彦教授は「文章作成・校正に限ればChatGPTの実力とコスパはすさまじい。しかし、何かを質問をすると『わかりません』とは言わず、ソースも示さずに間違った情報を出してくることも。指示待ちに慣れて判断力を失いつつある人々は注意が必要だ」と警告する――。

chatGPTを使用しているイメージ
※写真はイメージです
Google社では緊急事態宣言が出たほどのインパクト

これほど大きな話題に、しかも短期間でなるとはだれもが想像していなかったと思うのが生成AIの代表ChatGPTである。アルファベット(つまりグーグル)が世界シェアの8割を占めるといわれた検索市場、結果としての広告市場の競争がマイクロソフトやイーロン・マスク氏を巻き込んで大変なことになりそうで、アルファベット内では「コードレッド」つまり緊急事態宣言が経営陣の中で出されたとウォールストリートジャーナルは報じている。さらには、私たちの生活も大きく影響されそうである。世界中を大きく変えたスマホになぞらえて「検索業界のiPhone」と言われるほどである。

ここでは特に大学の教員という立場を中心に全くの個人的な意見を述べたい。

宿題のレポートもChatGPTで書けてしまう

まず、最初は「学生にアサイメントを出してもChatGPTでやってしまうので、これまでの教え方が通用しなくなってしまうのでは」問題。つまり、宿題の意味がなくなってしまうのではないかという懸念である。それはもっともだと思われる。

ちまたにはChatGPTを使って宿題をしたかどうかを判定するソフトウエアも開発されつつあるという。確かにChatGPTを使って、さすがにそのままでは出さないかもしれないが(実際は結構大胆というか考えてなくてそのまま出す学生も多数いると想定される)、原案を出したものをちょこちょこっと修正するだけで相当レベルの高い回答が用意できることはさまざまなところで指摘されている。そうなれば学習効果はないだけでなく、理解や努力、習熟度を正確に測ることもできず、採点や成績は何のためにあるのだという話になる。その通りである。

実はこの点は個人的にはあまり心配していない。「自分は見抜ける」という自信があるからではない(ただ、過去の経験で言えば、アメリカ時代に100人ほどの学生のレポートの中からカンニング的に作られたレポートを2度見つけたことはあるし、それくらいは多くの経験のある教員にはできると思う)。

AIに任せてしまうなら大学で学ぶ資格はない

もう一度「そもそも」に立ち返ってみたい。学校とは採点や成績をつけることが目的なのだろうか? もちろん違う。

「学ぶ」こと、特にビジネススクールレベルになると「学び」には知識やスキルを「つける」ことと、思い込みや表層的な理解を「はぎとる」ことの二面がある。その大半は授業やクラスメートとのディスカッションから得られる。そして、もしその「学び」の大切さと楽しさを授業を通じて学生と共有できていれば、そのための準備や振り返りを「ChatGPTにやらせる」なんていうもったいないことができるだろうかと思うのである。自分の大切な時間とお金を使って、一番おいしいところをAI任せにするような発想があるとすれば、そもそも学ぶ資格はないし、仮に良い成績を取ったとしても竹光でしかない。ビジネスの本番で本当に切り合うことになったらイチコロである。

その意味でChatGPTの出現は学生にとってはもちろん、教員や学校側にとっても、学ぶとは何か、学校の価値はどこにあるか、そして教員とは何をするべきかといった、なんとなくわかっていると思い込んでいた、あるいはそのポジティブなニュアンスにあぐらをかいていたこれまでに冷水を浴びせることになったのではないかと思われる。もしかしたら騒いでいる多くの学校や教員は、学生がChatGPTを使って宿題をすることに心配しているのではなく、自分たちの仮面がはがされ、「王様は裸だ」とばれてしまうことにあたふたしているのではないかという気すらする。

大学の教室内で男女の学生が同じノートパソコンを見ている
※写真はイメージです
技術の進歩で学ぶことの価値はなくなるのか

広い意味での学力が重要であることは言をまたない。ただ、「検索がこれだけできるのに、覚える必要あるんでしょうか?」とか「翻訳ソフトがすごく進んできたので、もう英語勉強しなくてもいいのではないでしょうか?」といったもっともらしいが本質を大きく外した質問は学生からもそしてマスコミからもこれまでもされてきたし、堂々と答えてきたのではなかったか?

もう一つは、研究者としてである。限られた個人的な経験から言えば英語での論文の校正はとても便利になった。グラマーはもちろん、言葉遣いに関してもさまざまな示唆が得られる。その意味で先生よりも、翻訳業者(あるいは翻訳者)は泡を食っているだろう。

しかし、先に触れたように、自分の世界を広げ成長をするためには英語は必須である。多くのクロスカルチュラルな「目からウロコが落ちた」経験は教科書を読んだ時よりも、知人あるいはパーティーで初めて会ったような人との何気ない会話から生まれることが多いし、何気ない会話ができない限り友人を作ることは難しいからである。

「わかりません」と言わないChatGPTは怪しい

文章作成・校正に限ればChatGPTの実力、そしてそのコスパはすさまじい。一方、ChatGPTは「事実」に関してはかなり怪しい。実際、例えば「慶應ビジネススクールの清水勝彦ってどんな人ですか?」と聞くと、え? といった答えが返ってくる。経歴を聞くと全く間違った情報を返してきたし(例えば、スタンフォードの博士をたった2年で取得したことになっていた)、これは他の先生についても同じだった。

実際ChatGPTは「わかりません」とはまず言わないという(聞き手側の質問が曖昧過ぎてわかりませんというのはあるにしても)。研究者の間ではAIが十分な情報がなくても答えを作り上げることを「hullusination=幻覚」「答えを迫られた子供のよう」と言われていると最近のウォール・ストリートジャーナルは報じている。情報と事実を調べることについては普通のGoogle検索のほうがソースを明示してくれる、つまり聞き手の判断の余地があるという意味でもはるかに正しくかつ有効である。「政府が決めてくれない」「トップが示してくれない」と指示待ちに慣れて判断力を失いつつある人々は特に注意が必要と思われる。

OpenAI公式サイトより
OpenAI公式サイトより

ChatGPTについて懸念される点
【1】間違った情報でも正しいものとして示す
【2】質問したときに「わかりません」と言わない
【3】十分な情報がなくても答えを作り上げる
【4】情報(答え)のソースを明示しない

画期的な技術だが過大評価も過度に恐れる必要もない

私がEmailに初めて触ったのはMBA留学中の1992年、30年前であり、自分でモデムを買ってインターネットをやりだしたのが博士課程の1996年だった。「ダイヤルアップ」と言われる電話回線を使用したもので、画像などをダウンロードしようものなら分の単位がかかったし、それを見ていたディスプレーもおそらく今の人たちは見たことないであろうブラウン管のモニターだった。それがあれよあれよとハイスピードになり、モニターはフラットになり、いまはPCはいらない、スマホで十分という時代である。

こうした技術進化には馬車と自動車が例えに挙がることが多い。おそらく馬車関係の人々は失業、そしてその後の生活におののいたであろう。しかし、振り返ってみれば何でもない。新しい仕事がどんどん生まれ、むしろ生活はよくなっている。ChatGPTも同じようなことだろうと思う。

その意味で、ChatGPTを過大評価して大騒ぎする必要はないと思うし、過小評価あるいは進化を妨げようとするのもおかしい。要はうまく使えばよいのである。ただ、そこで忘れられがちなのは、作業としての勉強や仕事ではなく、そもそもの「目的」「価値」は何であったかをもう一度真摯しんしに見直し、自分の勉強や仕事への姿勢に正直に向き合うことではないかと思われる。

清水 勝彦(しみず・かつひこ)
慶應義塾大学大学院経営管理研究科教授
テキサスA&M大学Ph.D.。コーポレイトディレクションでの戦略コンサルタント、テキサス大学サンアントニオ校准教授(テニュア取得)等を経て、2010年より現職。専門は組織変革、戦略実行、M&A。近著に『機会損失「見えない」リスクと可能性』。

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