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【因縁の朝鮮王朝史】大王・太宗はなぜ継母の王妃を激しく憎んだのか

  • 2023.2.25

高麗王朝の武将だった李成桂(イ・ソンゲ)は当時の最高実力者になり、高麗王朝を滅ぼして1392年に朝鮮王朝を建国した。彼の故郷にいた妻は前年に亡くなっていたが、神懿(シヌィ)王后という尊称を得た。しかし、実際に王妃として機能したのは、都にいた第二夫人の神徳(シンドク)王后であった。

李成桂は初代王・太祖(テジョ)となったが、6人の息子がいた。神懿王后から6人、神徳王后から2人生まれている。

その中で誰を2代目の後継者に指名するのか。普通なら、神懿王后の息子たちから選ぶのが常識的だった。彼らのほうが年長だったからだ。特に、神懿王后の5番目の息子の芳遠(バンウォン)は、父が王朝を建国するときに大いに貢献していた。力量的も申し分のない男であった。

ところが、太祖が指名したのは神徳王后の二番目の息子だった8男の芳碩(バンソク)だった。そのとき10歳。25歳の芳遠に比べるといかにも頼りなかった。

それなのになぜ芳碩が世子になれたのか。それは太祖が寵愛する神徳王后に懇願された結果であった。

『六龍が飛ぶ』ではユ・アインが太宗を演じていた(画像=SBS『六龍が飛ぶ』公式サイトより)
王朝の基盤を作った太宗の功績

芳遠としては、父に裏切られたという思いが強かった。彼が黙っているはずがなく、1396年に神徳王后が亡くなったあと、芳遠は逆襲のチャンスを狙っていた。結局、彼は1398年に神徳王后の2人の息子を殺した。病床にあった太祖は、ただ傍観するしかなかった。それほど、芳遠はすでに強大な権力を手中に収めていた。

先に兄を即位させたあと、いよいよ芳遠は3代王・太宗(テジョン)となった。

彼はとにかく継母の神徳王后が憎かった。彼女の墓を破壊して、その身分を徹底的に落とした。それでも我慢ならず、神徳王后の親族を厳罰に処した。そのあおりで、出世した高官も済州島(チェジュド)に島流しになったりした。

朝鮮王朝の歴史にとって、王朝の基盤を作った太宗の功績がとても大きくて彼は文字通りの大王であったが、彼の積年の恨みはすべて神徳王后に向けられた。このように、朝鮮王朝の518年間の始まりには、「大王と継母の強烈な憎みあい」があった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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