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【朝鮮王朝秘話】世祖から「男が生まれたら殺せ」と厳命された敬恵公主の子供は?

  • 2023.2.14

朝鮮王朝には多くの公主(コンジュ/国王の正室が産んだ王女)がいたが、史書の中で「一番美しかった」と評されているのが敬恵(キョンヘ)公主だ。

彼女は波瀾万丈の生涯を送った。「美しいだけでなく意志がとても強い女性」でもあったのである。

敬恵公主は5代王・文宗(ムンジョン)の最愛の娘として1435年に誕生した。本来なら幸せな一生を送れたはずなのに、実はそうならなかった。彼女の弟であった6代王・端宗(タンジョン)が叔父の世祖(セジョ)から1455年に王位を奪われてしまったからだ。敬恵公主が20歳のときであった。

その後、端宗は死罪となっており、敬恵公主も不幸に見舞われた。疑い深い世祖は彼女の夫に謀反の疑いをかけて処罰したのだ。

そのとき、敬恵公主は流罪となった夫の配流地まで付いていった。普通は、王族女性が過酷な環境に自ら出向くことはありえないのだが、夫を愛していた敬恵公主は一緒に苦労する覚悟を決めていた。

そんな彼女が配流地で妊娠した。そのことを知らされた世祖は「生まれた子供が男だったら、ただちに殺せ」と部下に厳命した。

そして、実際に生まれたのは男子だった。世祖の命令どおりなら、この子は殺される運命にあるが、救ったのが世祖の正室だった貞熹(チョンヒ)王后だ。

『王女の男』ではホン・スヒョンが敬恵公主に扮した
寛容な姿勢を見せた

彼女は生まれたばかりの男子を自分の手元でかくまった。我が子を手離した敬恵公主だが、命を奪われなかったことを感謝した。しかし、悲劇も起こった。夫が処刑されてしまい、敬恵公主も奴婢(ぬひ)にされてしまった。それでも必死に彼女は生きなければならなかった。お腹の中に新しい生命が宿っていたからである。

やがて娘が生まれた。このときは敬恵公主も安堵した。世祖から「殺せ」と言われないで済むからだ。

こうして2人の子供の母親になった敬恵公主。貞熹王后がかくまった息子は女子の服を着せられて王宮で育った。しかし、ついに世祖に知られてしまった。

ただし、もう世祖も無慈悲ではなくなっていて、敬恵公主の息子を容認した。さらには、彼女の身分も回復させて寛容な姿勢を見せた。

1468年に世祖が亡くなったあと、一部の高官たちが「敬恵公主の子供を処罰すべき」と言い出した。そのときは貞熹王后が激怒して「処罰を言い出した者は厳罰に処す」と語って敬恵公主の子供を守った。

そのおかげで敬恵公主は安寧に暮らしたが、1473年に38歳で亡くなった。若すぎる死を多くの人が悼んだ。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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