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【戦国の女性に学ぶ】立花道雪の娘~家督継ぎ、「女城主」に~

  • 2023.2.12
立花道雪が戦勝祈願をしたと伝わる六所神社(福岡県新宮町)
立花道雪が戦勝祈願をしたと伝わる六所神社(福岡県新宮町)

「戦国女性はみじめだった」といわれることがあります。その理由として、「女だから家督を継げなかった」ということが挙げられています。確かに江戸時代初期、跡継ぎの男子がいなくてお家断絶という例が多くあり、戦国時代もそうだったと思われているからです。

ところが、戦国時代は、女性も家督を継いでいたのです。珍しいことではありますが、何人か具体例があり、その一人が立花道雪の娘●千代(ぎんちよ、●は「門」がまえに「言」、以下同)です。●千世とも書かれることがあります。

7歳で家督継ぐ

立花道雪、元は戸次鑑連(べっき・あきつら)といいました。立花家の名跡を継ぎ、立花を名乗っています。大友宗麟の重臣として筑前立花城(福岡市東区など)の城主となっていましたが、子どもは●千代と名乗る娘一人しかいませんでした。主君宗麟も家督を心配し、「養子を迎えたらどうだ」と再三勧告していますが、どういうわけか道雪は首を縦に振りませんでした。

すると、1575(天正3)年のことですが、道雪は宗麟に、「娘に家督を譲りたい。許可してほしい」と要望したのです。この年、●千代は1569(永禄12)年生まれなので、まだわずか7歳です。その申請を許可した文書が「立花文書」の中に残っていますので、現代訳をして引用しておきましょう。宗麟と、子の大友義統(よしむね)が、麟白軒と称していた道雪に与えたものです。

「息女●千世への譲状の趣は家臣たちにも披露した。広く知らせるためである。立花城にある置物などもしっかり渡されるとのこと。感心する次第である。これからも、堺目の防備等に力を入れるように」

「(天正3年)六月十八日」の日付と、宗麟、義統の花押があり、麟白軒(道雪)宛てとなっています。

ここでは、娘の名は●千世と書かれています。文中、「立花城にある置物」というのは少し分かりにくいかもしれませんが、立花城に置かれている武具や兵糧のことと思われます。立花家の家督だけでなく、立花城の城主という地位も娘に譲っていたことが分かります。つまり、女性もこの時代、家督を継ぐことができたのです。

立花宗茂の妻に

こうして女城主が誕生しました。しかし、そのままでは子どもは生まれず、立花家は断絶してしまうことになります。そこで道雪は、しかるべき男子を婿養子に迎えようと考え、白羽の矢が立ったのが、高橋鎮種(紹運)の子宗茂でした。高橋鎮種も宗麟の重臣の一人です。

二人の結婚は1581年のことですので、●千代は13歳、宗茂は15歳です。立花城での生活が始まり、その後、1587年の豊臣秀吉による九州平定後、宗茂は大友の家臣としてではなく、秀吉から13万石を与えられ、豊臣大名となりました。筑後柳川城主となり、二人は柳川城(福岡県柳川市)に移っています。

この後、夫宗茂は豊臣大名の一員として文禄・慶長の役で大活躍をすることになるのですが、夫婦の間に亀裂が生じ、1595(文禄4)年、●千代は柳川城を出て、別居生活に入っています。

1600(慶長5)年の関ケ原の戦いのとき、宗茂は西軍石田三成方についたため、所領没収で浪人となりました。ところが、宗茂はその後、奇跡的に復活をしているのです。1620(元和6)年、旧領を安堵(あんど)され、自分の居城だった柳川城に戻っています。

しかし、●千代は夫の大名復帰を見ることなく、肥後に隠せいしたまま、1602(慶長7)年に亡くなりました。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

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