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戦国武将・立花宗茂の逸話がおもしろい!西国無双の人格者過ぎる逸話

  • 2023.1.28
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立花宗茂は戦国時代の終わりに、九州で活躍した戦国武将です。 東の本多忠勝、西の立花宗茂といわれるほど武名を若いころから上げていました。

しかも立花宗茂は強いだけの人物ではなく、周りの人から愛される人格者でもありました。 伝わっている逸話も、立花宗茂がいかに誠実に人に接してきていたかが分かるものなんですよ!

立花宗茂の兵法の極意

 

立花宗茂は、豊臣秀吉から「西国無双」と西日本で一番の武将と高い評価を受けていました。 その立花宗茂が兵をうまく使う極意を他の武将たちが聞き出そうとしたときの逸話です。

特に変わったことはしていない

その極意について尋ねられた立花宗茂の返事は以下のようなものでした。

「特別に何流といったすごい軍法を使う必要はありません。 兵士に対しては誰であろうとえこひいきすることなく、慈悲を忘れず、違反した常には者は誰であろうと法に照らし合わせて適切に処罰をする。 常日頃からしっかり対応していれば、合戦の際、兵が誰かに対して不平の心を抱いていることもありません。 そうすれば全員が命がけで戦ってくれるので、結果自分の功績が挙がるのです。 他になにかいい方法なんて言うものはありません。」

日頃からえこひいきをしないで、みんなに対して公平に接し、法に反すれたものが誰だろうとしっかり対応する。 そうすれば全員自分の言葉に従ってくれる、横着しようとしても無駄で、この方法以外に家臣が従ってくれる方法なんてないというのが立花宗茂の考えだったようです。

その誠実さがよく分かる言葉ですね。

立花宗茂治の国を治める肝

 

鎌倉時代から続く名門の細川氏の当主で、猛将としても名をはせていた細川忠興(ほそかわただおき)が、立花宗茂は国を治めるのに苦労したことが無いと聞きつけ、その秘訣を尋ねた時の逸話です。

隠し事なんてしない

秘訣を聞かれた立花宗茂が返した答えは「別に、これといった秘訣なんてありません。」というものでした。

さらに「家臣には何一つ隠し立てはありあません。 普通妻にしか知らないようなことも、当家では全ての家臣は知っているはずです。 だからこそ家臣は全員私を信じてくれているし、家臣が自分を裏切ることもありません。 結果、自領は何の問題もなく治めることができます。」と続けたのです。

自分も家臣を信じている

家臣に何も隠し立ては無い。 その為信用されていると言ったうえで、立花宗茂はさらに言葉を続けます。

「家臣が自分を信じてくれているように、自分も家臣全員を信じています。 そのため、家臣に対して監視役を付けて何をしているか監視したことはありません。 譜代の家臣も、たとえ新参者だろうと全員が自分の妻だと思って接しています。」

下剋上の時代は過ぎたとは言え、まだ隙を見せていい時代ではありませんでした。 それでも隠し立てを何もせず、家臣全員を妻のように大切に思うことで立花宗茂は信頼を築き上げていたようですね!

主君の心配事を一瞬で払拭した逸話

 

関ヶ原の戦いで、石田三成側の西軍に付いた立花宗茂は、領地を没収され浪人暮らしとなりました。 浪人となった立花宗茂は江戸幕府の将軍、徳川秀忠の家臣となり、10年後に大坂の陣を徳川家の家臣として迎えました。 その頃の逸話です。

自分の過去を偽らない潔さ

大阪冬の陣が本格化する直前、豊臣恩顧といわれる大名が豊臣軍に付くという噂が、様々なところで立っていました。 これにはさすがの徳川秀忠も裏切りを心配して、立花宗茂に相談しました。

「豊臣恩顧の大名が大阪方に寝返るという噂が広がっているが、そういった者は出てくるだろうか?」と徳川秀忠が尋ねると、立花宗茂は「出てきません!」ときっぱり断言しました。

なぜそのようなことが言えるのかと聞かれれば、 「大友家の家臣に過ぎなかった自分を大名として取り立てられた私ほど、豊臣家から恩義を受けた者はおりません。 もし大阪方に内応しようと考えている者がいるならば、必ず私に一度相談なり、一緒に裏切ろうと話を持ち掛けてくるでしょう。」

「ところが今の今までそのような不届き者は一人もおりませんでした。 そのようなものがいたら、刺し違える覚悟でその者を処断し、秀忠様への恩義を返す時と思っていましたが、今の今でも誰も来ていないのですから、大坂の豊臣方とつながっている裏切り者はいない。 そう考えてよろしいと思います。」

「もし私が誰かと刺し違えて死んだ時は、その時は裏切り者は出たが消された、と思ってご安心下さい」とも答えました。

自分は元々豊臣恩顧の大名だった。 しかし今は徳川秀忠に仕えており、裏切ろうと考えている者がいればその人物を許さない、とはっきり述べています。 この誠実な答えを聞いて、徳川秀忠は安堵したそうです。

信頼があった為人づてに徳川家臣に

元々、豊臣家臣であった立花宗茂ですが、関ヶ原の戦いで西軍が敗れた際、領地を奪われ浪人となりました。

その際、加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)といった旧知の人物の縁を頼りに江戸まで来ました。 非常に誠実な人物という事は広く知られていたこともあって加藤清正や福島正則以外にも、様々な人が立花宗茂に力を貸してくれたといいます。

やはり、人間ができていると困ったときに周りから力を貸してもらえるようですね!

まとめ

立花宗茂の伝わっている逸話では、家臣への公平さと強い信頼、恩義に対しての誠実さと律儀な性格がよくわかるものとなっていました。 武名に優れ、人格にも優れた立花宗茂だからこそ、豊臣秀吉に西国無双と評価されるほど活躍をしたのではないでしょうか!

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