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嫁の涙は本物か――。真相知ってなお肌寒い「家族」をめぐるサスペンス

  • 2023.1.27

平穏に暮らす家庭を襲った衝撃的な事件。その日を境に家族の関わりはいびつに揺らぎ、親子、夫婦、嫁姑と互いへの疑念がふくらんでいく――。家族の内側に突如として広がりゆく"疑心暗鬼の闇"を丹念に描いた長編ミステリーが『クロコダイル・ティアーズ』(文藝春秋)だ。

著者は、人間の感情や心の機微を細やかに描き、"ヒューマンドラマの名手"とも評される雫井修介さん。劇場型捜査という斬新な構想でベストセラーとなった警察小説『犯人に告ぐ』、『検察側の罪人』ほか、映画化された作品は多く、ミステリー、恋愛、ビジネス小説など幅広いジャンルで人気を集めている。

20年以上の作家生活で重要なテーマの一つとなっているのが、「家族」とは何か。小説を通して問いかけてきた雫井さんの最新長編『クロコダイル・ティアーズ』は、2022年度の第168回直木賞候補作としても注目された。

着想は数年前の殺人事件

物語の舞台は古都・鎌倉近くの町。大正時代から続く老舗の陶磁器店を営む初老の夫婦、久野貞彦と暁美の視点で描かれていく。夫妻は、一人息子とその妻、幼い孫も近所で暮らし、穏やかで幸せな日々を過ごしていた。

ところが、跡継ぎにと期待していた働き盛りの息子・康平が何者かによって殺害されてしまう。逮捕された犯人は、息子の妻・想代子の元交際相手だった。さらに裁判が始まると、被告人の男は想代子を奪った康平への憎しみを語り、判決当日には腹立たし気な口調で裁判長に訴えたのだ。

「この際、正直に言ってやりますよ。俺は別に逆恨みとかそういう理由でやったんじゃない。想代子と会ったとき、彼女から頼まれたんですよ。旦那のDVがきつくて、毎日が地獄だって。別れたいって言ったら、逆上するに決まってる。何とかしてくれないかって。自由になったら、俺とよりを戻したいって」

想代子はこれを否定し、再捜査も行われないまま、残された家族の生活は続いていく。しかし、息子を失った夫婦の心中はさまざまな疑念でかき乱されていくことに......。こうして始まる物語の着想はいかに生まれたのか。雫井さんはインタビューで語っている。

〈数年前に新聞を読んでいて、ある裁判をめぐる小さな記事が気になっていました。ある男性が殺された。殺人罪に問われた被告人は未亡人となった妻の友人であり、裁判で「その妻にそそのかされた」と証言した、というものでした。結果がどうであったかまでは追いかけていないのですが、この事件の構造は、とても悩ましいものだと印象に残りました。殺された男性の両親は、どう感じるんだろうか。もしかしたら、小説になるのではないかと、数年間、温めていたんです〉(『オール讀物』2023年1月号・インタビューより)

幼い息子を抱える想代子は、義父母夫妻と同居し、家業を手伝うことになる。孫を溺愛する貞彦は嫁を信じようとするが、どうにも心を寄せにくいと感じていた暁美は疑念を抑えられない。「息子を殺したのは、あの子よ」と疑う暁美、「馬鹿を言うな。俺たちは家族じゃないか」とかばう貞彦。夫婦間にも軋轢が生じていく。さらに暁美は実姉から、想代子が夫の遺体を迎えた時の涙が「噓泣き」だったのでは、と耳打ちされる。先述のインタビューで、この言葉がタイトルに結びついたと、著者の雫井さんは明かしている。

クロコダイル・ティアーズ(crocodile tears=ワニの涙)とは、「噓泣き」を意味する。獲物を捕食する際にワニが涙を流すことが語源で、この言葉から想代子の人物像が固まり、物語の核となったのだという。

「家族」への幻想がドラマを生む

この作品では、嫁姑のぶつかりあいも重要なモチーフになっている。暁美は想代子が作る料理の味付けが濃いことから「私を早死にさせたいんなら......」と咎め、亡夫の遺品を早々に片付けようとする嫁を訝しむ。自分になつかぬ孫によって怪我を負わされ、代わりに若女将のように生き生きと働く想代子を見ては、さらなる疑念も湧いていく。この孫は康平の子ではないのではないかと。

葛藤する一方、暁美には想代子が何を考えているのかわからない。口数が少ないとはいえ、愛想が悪いわけではなく、気遣いも感じられる。姑からケチをつけられても、さっぱりと明るくふるまう様子からは、本音がどこにあるのかまったく見えず、暁美の苛立ちはますますつのる。著者はあえて想代子の内面を描かないのだ。

だからこそ、読者もまた不安や怖さを駆り立てられていく。想代子の言動が一つひとつ気になって、あれこれ疑惑の目を向けてしまう。姑にこんなことを言われたら、どんなに悔しいことか。それでも明るく振るまう陰では憎しみの感情を押し殺し、何を目論んでいるのだろう。やはり彼女は「夫殺し」をあの男に依頼したのか。なおも夫から受けたDVへの復讐心を胸に秘めながら、この家で何かを企んでいるのではないか......と。読者である自分もどんどん疑心暗鬼にかられていく怖さ、そして、いつしか顔の見えない想代子という女を形づくり、自身の感情も投影してしまうことの胸苦しさがつのる。正直なところ、それが読んでいる間の気持ちだった。

雫井さんが「家族」をテーマに描くのは、家族は関係が濃密だからこそ、心の行き違いも生じてドラマが生まれるからという。確かに、家族だからわかりあえるというのは幻想であり、距離が近過ぎるから感情を吐き出せなかったり、過剰な期待を押し付けたり、葛藤することも多い。親子、夫婦、嫁姑など、誰しも身に覚えのある複雑な感情があるから、家族をめぐるサスペンスに引き込まれていくのだ。

では、想代子という女性は、夫の殺害を企んだのか。「悲劇の未亡人か、稀代の悪女か」という問いは、最終章まで明かされない。彼女自身の目線で「真相」が語られ、ようやく解き明かされる問いの答え。だが、読み終えてもなお肌寒さを覚えるのはなぜだろう......。

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