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ハリー王子の回顧録、まとめ上げた凄腕のゴーストライターとは?

  • 2023.1.19

イギリス王室の異端児に協力し、手にした報酬は少なくとも100万ドル以上と伝えられる。ハリー王子の話をまとめたゴーストライターは何者なのか。

ハリー王子の回顧録のゴーストライター、J.R・モーリンガー。(マントヴァ、2013年9月)photography: Getty Images

2021年夏の光景をちょっと思い浮かべてみよう。最高級の亜麻が張られたふかふかのアームチェア(ハリー王子夫妻が新婚当初の住まい、ノッティンガム・コテージで使っていたイケアブランドではない)に座って、ハリー王子が自分の人生の話をしている。常に二番手、スペア(スペアタイア?)だった人生の。ここはカリフォルニア州モンテシートにある王子の自宅で、ハリー王子のいる書斎の扉は閉まっているが、遠くから息子のアーチーの笑い声が聞こえてくる。Zoomの向こうにいるのは彼のゴーストライター、J・R・モーリンガーだ。精神科医のごとく、せっせとメモを取っている。ただしメモ帳ではなく、彼のMacbook Airにだが。

クルーニー夫妻の友人

数年前、別な有名人が同じように、このピューリッツァー賞受賞ジャーナリストに傷ついた心の中を明かしていた。「患者」の名はアンドレ・アガシ。テニス界の伝説的プレーヤーは250時間かけてJ.R.モーリンガーに家族のこと、試合での勝利と敗北、汚い手を使ったことがあること、覚醒剤の使用などを赤裸々に語った。一方、ハリー王子の場合はやや様相が異なる。イギリスの王位継承権者は妻のメーガン夫人と一年以上前からカリフォルニア州に移住している。攻撃的なイギリスのタブロイド紙からも、格式ばったバッキンガム宮殿からも、ウィリアム皇太子の影からも遠く離れて。これまでずっと黙して王室を守り、耐えてきた王子は今、しゃべりたい、自分の声を届けたいと思っている。

2021年、かつてイギリス国民に愛された王子が自分の人生を振り返る三部作の回顧録を3680万ポンドで契約することに成功したのは出版社のペンギン・ランダムハウスだ。もちろん、一夜にして文章が書ける人はいない。そこで王子の友人、ジョージ・クルーニーが紹介したのがJ.R.モーリンガー(フルネームはジョン・ジョゼフ・モーリンガー)だった。ジョージ・クルーニーはJ.R.モーリンガーのベストセラー自伝『The Tender Bar(テンダー・バー)』を映画化したことで彼と知り合った。父親のいない青年が、ベン・アフレック演じる変わり者の叔父、チャーリーが経営するバーに通うようになる。やがてチャーリーは青年にとって父親のような存在となり、青年はおかげで「一人前の男」に成長するというストーリーだ。

J.R.モーリンガーがハリー王子に気に入られる要素はそろっていた。王子のように父親と関係が混沌としており、アルコールに苦しんだこともある......しかも子どもの頃の辛い体験を引きずっている。ただし、決定的に違う部分もある。ハリー王子は宮殿と超名門私立寄宿学校のいわば象牙の塔育ち、J.R.モーリンガーはニューヨーク郊外やアリゾナの貧しい家庭で育った。何はともあれ取引は成立し、回顧録を発売する準備は整った。イギリス王室は座して待つしかない。

2000年にピューリッツァー賞受賞

J.R.モーリンガーのこれまでの道のりは決して平坦ではなかった。1964年12月7日、ニューヨークで生まれる。子ども時代を過ごしたのはロングアイランドの郊外の町、マンハセット。『華麗なるギャツビー』の舞台として知られる場所だ。両親の離婚後、祖父母や母のドロシーと狭いアパートでつつましく暮らしていた。DJをしていた父親のジョニー・マイケルは乱暴な男で、J.R.がまだ赤ん坊の時、ドロシーを枕で窒息させようとした。少年の頃、J.R.は気分転換に近所のバーに行き、常連客と話をするのが常だった。

ティーンエイジャーになり、ニューヨークから数千キロ離れたアリゾナ州スコッツデールに移住した。やがてコネチカット州の名門校、イェール大学に晴れて合格。1986年に卒業した後はジャーナリズムの世界へ。「ニューヨークタイムズ」紙からコロラド州初の地元紙「ロッキー・マウンテン・ニュース」紙、さらに「ロサンゼルスタイムズ」紙でオレンジ郡担当記者となった。ここで書いた記事がピューリッツァー賞に輝くことになる。「Crossing Over(交差)」というタイトルの記事は「ディープ・サウス」の小さな町を取りあげたもの。そこは人種差別が激しく、かつて奴隷だった黒人の子孫と奴隷所有者だった白人の子孫が川を隔てて分かれて住んでいた。

心に迫るストーリー

受賞から5年後、『The Tender Bar(テンダー・バー)』を発表する。自らの体験を基に書いた心に迫るストーリーはベストセラーとなり、2006年の全米オープンテニス大会の間に夢中になって読みふけったのは......アンドレ・アガシだった。テニス選手は著者に自伝の執筆を依頼し、これを引き受けたJ.R.モーリンガーはきっちり仕事をする。2009年に出版されたアガシの自伝『Open(オープン)』は批評家から絶賛され、これまたベストセラーとなった。本の中では1997年に覚醒剤メタンフェミンに手を出したこと、テニスがずっと大嫌いだったこと、権威主義で支配的な父親と複雑な関係だったことなど、すべて赤裸々に語られている。いまもなお、この自伝への評価は高い。金メダリストのケイトリン・ジェンナーの自伝を共同執筆したジャーナリストのバズ・ビッシンガーは、「(J.R.モーリンガーは)優れたジャーナリストであるだけでなく、優れた作家でもあり、ゴーストライティング術を高めてくれた」と語っている。「彼は最高だ。文章が巧みで、誰もが求める作家だ」

アンドレ・アガシの本を書くためにJ.R.モーリンガーはアガシへの長時間のインタビューをおこなったラスベガスに引っ越している。「まるでセラピーのような効果があった」と後日、J.R.モーリンガーは語っている。

一生に一度の本

書店で記録的な売上となっているハリー王子の自伝『Spare(スペア)』。photography: Getty Images

その後、編集者のシャノン・ウェルチと結婚し、2児の父となり、ナイキの創業者フィル・ナイトの回想録、『Shoe Dog(シュードッグ)』を手掛けた。しかし『Spare(スペア)』は、誰もが認めるようにまったく異なる挑戦であり、「一生に一度の本」とも言われている。アフガニスタンで25人を殺したこと、10代の頃コカインに手を出したこと、17歳時の野原での童貞喪失、2005年のナチスの制服事件......これまで誰にも語ったことのない話をハリー王子から引き出すために50回以上、Zoomミーティングをしたそうだ。J・R・モーリンガーが関心のあるテーマ(そして世界中の人々も)は変わっていない。すなわち本人とその家族の複雑な関係だ。デイリー・メールにある情報筋は「J. Rは几帳面でチャーミングだ。気さくな男でストーリーセンスを備えている。これまで心に傷を負った男の話をずっと書いてきた」と語った。失意の王族がいたらベストセラーは約束されたようなもの。ハリー本を出版しているペンギンランダムハウスによると、『Spare(スペア)』英語版の売上は初日で140万部を超えたという。まさに一生に一度の本だ。

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