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リニューアブル・ジャパン眞邉勝仁が、金融業から再生可能エネルギーの上場企業社長になったワケ

  • 2023.1.13
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リニューアブル・ジャパン眞邉勝仁が、金融業から再生可能エネルギーの上場企業社長になったワケ

再生可能エネルギー発電所の開発から運営までを一気通貫で提供するリニューアブル・ジャパン株式会社。同社の代表取締役社長の眞邉勝仁さんが、2011年の東日本大震災の際に現地を訪れ、自分に何ができるのかと考えたことが設立のきっかけです。その実現にあたって力となったのが、眞邉さんが長年携わってきた金融業界の知識と経験でした。眞邉さんのお話から、再生可能エネルギーにおけるフロントランナーにまで成長したリニューアブル・ジャパン株式会社の軌跡を辿ります。

金融不況下で投資家たちが買うのは、再生可能エネルギーだった

——現在、リニューアブル・ジャパンでは再生可能エネルギー事業を展開していますが、眞邉さんご自身は金融業界の出身なんですよね?

眞邉勝仁さん(以下、眞邉さん):ええ。リニューアブル・ジャパンを立ち上げるまではずっと金融業界にいました。海外の大学を卒業後に帰国し、入社したリーマン・ブラザーズには14年ほど在籍し、最初は債券部で営業をやっていたんです。ちょうどバブルが弾けて、証券不祥事なんて事件が社会問題になっていた頃で、株価も大暴落した時期ですね。当時は業界自体の新陳代謝も激しくて、40歳になったらもうこの業界にはいられないだろうという雰囲気でした。ですが、私たちのような新卒メンバーが徐々に育っていき、やがてコアメンバーになって外資系証券会社を支えていく。そういう変化が始まった時代でもあります。その後、日本でも証券化の波が始まり、アメリカ本社で得意とする証券化ビジネスを日本でもスタートすることになりました。そして、私が初代責任者としてチームを作り始めました。

金融業界で手腕を振るった眞邉勝仁さんが、リニューアブル・ジャパンで再生可能エネエルギー事業を立ち上げた理由とは?

——証券化って、その頃からスタートしたものなんですか?

眞邉さん:国内ではそうですね。アメリカではすでに住宅ローンや不動産証券化のマーケットがありましたが、日本では細部のルールなどが全然決まっていませんでした。ちなみに最初の不動産証券化商品は新宿住友ビルです。今から見るとなんちゃって証券化なんですけど、弁護士や銀行、投資家たちは、手探りながらみんなで一緒にマーケットを作っていたんですよね。当時はまだ株式市場で不動産を集めて上場し、売買するような仕組み(不動産投資信託、J-REIT)もありませんでした。

——不動産証券化の黎明期に、眞邉さんはその時代を支えていらっしゃったんですね。

眞邉さん:私が証券化をしていた時代にJ-REIT(=不動産投資信託)ができたことで、透明性が上がるということもありました。上場前に買った不動産の価値を、上場するときにちゃんと再度評価して開示しなければならない。それによって不動産の証券化、不動産のマーケットの価格の透明性と流動性がどんどん上がり、大きくなっていったんです。不動産マーケットを金融商品として扱えるようになったのは、株式市場との連動というのが大きかったと考えています。

——証券化=商業不動産ということでもないのでしょうか?

眞邉さん:そうですね。住宅ローンもありますし、リース債権などもそうです。リーマン・ブラザーズを退社してバークレイズ証券に移った際は不動産の証券化の部署がなかったので、私は作るべきだと提言し、ニューヨークでスポンサーを探して日本でのセットアップに携わりました。また、リーマン・ブラザーズ時代に証券化チームを任された時、初めてマネージャーに就任しましたが、新卒9年目でチームを任せられるのは異例の速さでした。当時のマネージャー職は、部下の給料を決めたり採用にも携わったりと、かなり大きな裁量を持つ立場でした。

——責任のあるポジションですね。

眞邉さん:確かに偉くなるのは名誉なことですし、給料も良いんですけど、中間管理職なので現場から離れた仕事も多いんですよ。先ほど昔の金融業界は40歳になったら居場所がないという話をしましたが、当時の私は40歳を超えていて、これまでの金融の常識だったらピークは過ぎているんです。だけど、まだ40歳ですよ? 現場が面白いから戻りたくて仕方なかった。

そんな時、ヨーロッパから「金融業界がマズいことになっている」という情報が入ってきて、経験上、これはアメリカに波及して日本にも飛び火するだろうと思いました。一方で、こうした大暴落の時こそ儲けるチャンスでもある。それで、バークレイズ証券からファンドのザイスグループに転職したんです。自分で投資できるといいなと思ったんですよね。ザイスグループに転職した月に、ヨーロッパの大暴落がアメリカに波及しました。それがご存知のリーマンショックです。

——すごいタイミングですね……。

眞邉さん:ザイスグループは証券化商品を主に運用するファンドで、不動産関連の投資ができるようなチームを作ろうといろいろやりました。これまでの経験上、頑張れば大抵はなんとかなっていたんですけど、予想したほどにはうまくいきませんでした。リーマンショックはチャンスだったんですけど、実は1990年代にも似たような金融不況があり、日本の金融機関もそれを踏まえてこの時に動いたんです。おいしいところを他人には渡さないぞって。それにそもそもマーケットが大荒れなわけなので、そこに逆らって事業拡大なんて簡単なわけがない。自分ならできると思っていましたけど、全然うまくいかないこともあるんだなとわかりました。

でも、今のリニューアブル・ジャパンがここまで来られたのは、ザイスグループでうまくいかなかった経験があったからこそ。リーマンショックで証券化商品を買う人がいなくなってしまった中で、それでも一部の投資家さんが買ってくれるものがあり、それがインフラだったことがわかりましたから。再生可能エネルギーは息の長いインフラビジネスで、これからも世界で拡大する商品だと思えたのです。

創業のきっかけは、東日本大震災

——インフラビジネスのなかでも、どうして再生可能エネルギーに行き着いたんですか?

眞邉さん:金融不況下でも日本の機関投資家が買う商材はないかと、これまでの経験と知識を駆使して考えた結果、インフラ関連にたどり着きました。ところが、当時の日本にはインフラの金融商品がほとんどない。そこで海外の市場に目を向けたところ、インドに太陽光のシステムを巡るフィード・イン・タリフ(FIT)という再生可能エネルギーの買取制度があるとわかったんです。そこに対して日本のパネル技術を提供したり、日本から資金調達をしてはどうかという話が出てきて、実際に関わることになりました。私はファイナンシャル・アドバイザーとして加わり、日本の商社や金融機関、パネルメーカーなどに出入りするようにもなりました。ここで携わったプロジェクトの資金調達を巡る一連のものはプロジェクトファイナンスと呼ばれ、証券化とほぼ同じ仕組みだったんです。

——プロジェクトの資金調達を証券化で行う、ということですね。

眞邉さん:そうなんです。つまり、自分が投資銀行でやってきたことをそのままいかせたんです。そうして新たな展開を迎えようとしていたんですが、そのタイミングで東日本大震災が起きました。すると、当時のビジネスパートナーから、太陽光エネルギーを使った浄水器を現地へ送りたいという連絡が来たんです。被災地のみなさんを助けたいと。

私もやるしかないと思って日本赤十字社に連絡を入れたら、「浄水器は自分で現地まで持って行ってほしい」と言われてしまいました。こうなったら自分たちで搬入するしかないと、岩手県大船渡市と宮城県女川町の自治体にお渡しする運びとなり、震災の翌月に被災地に入りました。いろいろな町を通りましたけど、ほぼ全壊で悲惨な現状が広がってました。スタジアムが海の中に沈んでいたり、山の上にタンカーが乗り上げていたり……。そんな光景を目の当たりにし、自分に何ができるんだろうと深く考えたんです。

今自分がすべきは、太陽光や風力などの再生可能エネルギーを被災地に届けるお手伝いをすることなんじゃないか。資金は自分がいる金融業界から集めて、再生可能エネルギーのプロジェクトを立ち上げよう。そのために証券化、プロジェクトファイナンスの手法を使えばいい。そう思ったんです。もちろん私以外にも同じようなことを考えた人はいたでしょうし、雑誌やメディアでもそういう考えを目にした記憶があります。でも、実行した人はいませんでした。

被災地へ寄贈した太陽光で動く浄水器

自分たちにできることは何か。消去法で選んだデベロッパーの道

——再生可能エネルギー事業を始めるため、眞邉さんは長年身を置いた投資銀行から転身しようと思ったんですね。

眞邉さん:投資銀行というのは、お金を稼ぐことが是であるというシンプルな組織なんです。それは否定しませんけど、自分はそうじゃない場所でこれからの人生を送ってもいいんじゃないか。被災地を回り、そんな考えが浮かびました。それからザイス社内で再生可能エネルギー事業を行ったんですが、ザイスグループの方から本業の証券化ビジネスに回帰するので、太陽光や再生可能エネルギーは会社を辞めて社外でやってくれと言われたんです。

だったら独立してしまおうと思って知人たちに相談したら、「手伝うから挑戦しなよ」と後押ししてくれて。そのうち一人が元会長です。彼と1年間364日話し合ったことが今のビジネスのベースになっていると思います。364日なのは、さすがに元旦で電話するのはやめたからです。会長が技術面、私が金融面を担当して、この2人でリニューアブル・ジャパンをスタートすることになりました。

眞邉さんは、2012年にリニューアブル・ジャパンを設立した

——お金のためじゃない生き方を選んだとしても、会社の設立や事業の立ち上げには相当な資金が必要ですよね。ゼロから新しいことを始めることへの不安はなかったんでしょうか?

眞邉さん:リスクがあることは理解していましたし、成功するかどうかといった先の見通しも考えていましたが、不安や恐怖は感じませんでしたね。ただ、再生可能エネルギーにあまりのめり込まないようにと妻から言われていたので、独立したことは黙ってました。何カ月かしてからバレて正直に話したんですが、しばらくは口を聞いてくれませんでしたね(苦笑)。

——それほど再生可能エネルギー事業をやりたかったんですね。

眞邉さん:目の前の課題に向き合うと決めたからには、途中で投げ出すなんて自分の性格上できない。なんとしてもやりたかったというより、引くに引けない状態だったんだと思います。それから日本でもFITが本格的にスタートすることも後押しとなりました。FITは国が決めた制度で、わかりやすい所でいうと皆さんの電気料金の請求書を見ると、再エネ賦課金というのが10%ぐらい税金みたいに上乗せされていますよね。あれが再生可能エネルギーの電源の購入に充てられているんです。

このFITという制度ができたことで、一気に太陽光発電所や風力発電所などを作ろうという動きが国内にも出てきました。私たちも再生可能エネルギー事業を展開しようと考えたところ、投資家、施工、サプライヤー、デベロッパーの4つの形態があるとわかりました。しかし、お金がないから投資家になるのは難しいし、施工もできない。サプライヤーに至っては機器の製作なので論外。となると私たちができるのは、土地探しや資金調達を行うデベロッパーとして全体をアレンジメントする立ち位置しかありませんでした。

——消去法としてデベロッパーという道を選んだんですね。

眞邉さん:デベロッパーは発電所をつくるための土地探しを行うんですが、大きな土地が必要となるため、自治体から土地を借りる必要があるんです。現地の地権者回りをしながら、自治体と立地協定を結び事業を拡大していきました。私たちが大切にしたのは、その地域の中で雇用を生み出しながら事業を展開し拡大すること。地域の人を雇用することで地元の信頼を得ることができます。

再生可能エネルギー事業を立ち上げた当初からデベロッパーとしての道を選択した

——金融のノウハウをいかしデベロッパーとして再生エネルギーの開発の道を進みますが、御社ならではの強みは何でしょうか?

眞邉さん:再生可能エネルギー発電所の開発から、発電、資金調達、運営管理までの再生可能エネルギーに関する全ての事業を一気通貫で行っている点です。私たちはファイナンスとダイレクトにつながれるので、各事業に対してプロジェクトファイナンスが組めるのも大きな強みですね。私は海外で成功しているデベロッパーを参考にしましたが、こうしたファイナンスを含めた一気通貫のモデルは今の日本にはほぼありません。

リニューアブル・ジャパンでは、再生可能エネルギー発電所の開発から運営までを一気通貫で行っている 

諦めない限りは失敗じゃない

——素人考えで恐縮ですが、このプロジェクトファイナンスのスキームって他の分野にも応用できそうですよね。再生可能エネルギー以外で事業を展開・拡大しようという考えはなかったのでしょうか?

眞邉さん:今のところはないですね。再生可能エネルギー事業の課題は、まだたくさんありますから。日本における再生可能エネルギーをどうやって広げていくのか。今、1つの岐路に立っているので、それは弊社が率先してやっていくべきだと思っています。

金融的な意味でも、私自身はもともと金融機関や投資家から資金を借り入れるデットプレイヤーでありつつ、現在は事業家としてエクイティプレイヤーの立場で、この両者をわかっている人間は国内にはほぼいません。日本の金融業界は動きが遅いんですが、私たちにはそれができるノウハウがある。国が2050年にカーボンニュートラルを目指すといっていますが、そのためには金融がついていかなければならず、そこを切り開くのも、再生可能エネルギーのフロントランナーである弊社の役割だと考えています。だから、他の事業展開はせず、今は再生可能エネルギーに特化すると決めているんです。

眞邉さんはこの先も、金融業界で得た知識と経験をいかし、再生可能エネルギー事業に尽力していく

——社会貢献のためにも、再生可能エネルギー事業一筋でいくんですね。

眞邉さん:再生可能エネルギー事業は、震災の復興のお手伝いをしたいと思って始めたこと。本来は金融業界にいた自分がする仕事じゃないかもしれないけど、始めたから続けている、それだけのことです。再生可能エネルギー事業でマネーゲームをするつもりはないのですが、事業を続けるためには資金が必要だったので上場しました。再生可能エネルギー事業が発展していくためにできることは、全てやっていきたいと思っています。

——今後の事業展開として考えていることはありますか?

眞邉さん:弊社が開発・管理する発電所を、安心して買ってもらえるようなブランド力のあるプラットフォーマーになることです。ただこれには、電気を供給するインフラそのものだけではなく、発電所を管理する人たちの高齢化という問題があるんです。だから、今後は安定した管理体制の構築を目指して新卒を採って新たな雇用を生み出していきたいと思っています。

——眞邉さんのように新しいジャンルでチャレンジしたい人にアドバイスなどがあったらお願いします。

眞邉さん:私たちの事業も最初はとにかく大変でした。だけど、こうして今しっかりと実現できています。無理だと思ったことだって、実際にできないとは限らない。いろいろと課題はありますが、美しい地球を未来の子どもたちへ残すためにチャレンジすることをやめたくない。とにかく諦めない限りは失敗じゃない。やり続ければいいんです。

静かなる情熱があふれる眞邉さんの趣味は、トライアスロンだという。同社のエントランスには、証券コードが記されたユニフォームがディスプレイされている
眞邉勝仁(まなべ・かつひと)

リニューアブル・ジャパン株式会社 代表取締役社長
1990年12月マサチューセッツ州立大学 経営学部卒業後、リーマン・ブラザーズ、バークレイズ証券などの外資系金融機関を経て、2012 年1月リニューアブル・ジャパン株式会社を設立。代表取締役社長に就任。

撮影/武石早代
取材・文/田中元、おかねチップス編集部

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