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「小杉湯」三代目・平松佑介が築く、半径500メートルの銭湯エコノミー

  • 2023.1.5
「小杉湯」三代目・平松佑介が築く、半径500メートルの銭湯エコノミー

昭和8年に創業した、高円寺の銭湯「小杉湯」。三代目の平松佑介さんは、一時期は斜陽産業ともいわれていた銭湯を、街や街の人たちと連携することで新たなスタイルを築いています。そんな平松さんに、小杉湯を家業として引き継いだ理由、そして未来へ残すためのアイデアや仕掛けの生み出し方について伺いました。

戦争も減少期も乗り越えた銭湯「小杉湯」

——まず、小杉湯の成り立ちから教えてください。

平松佑介さん(以下、平松さん):小杉湯が昭和8年に創業した当時は東京に2,900軒の銭湯があったんですが、戦争で400軒に減ってしまっていました。戦後、東京に出てきた祖父がその中の1軒である小杉湯を買い取り、以降は平松家が経営しています。僕はその三代目になります。

東京・高円寺の老舗銭湯「小杉湯」。平松さんの祖父が戦後に買い取ったことから、その歴史が始まる

——小杉湯は戦争を乗り越えた銭湯なんですね。

平松さん:ええ。戦後の東京の人口は約350万人で、そこから約20年後の東京オリンピックあたりで1,000万人へと一気に増加します。この時代は一般的に家にお風呂がないので、街づくり計画の一環として銭湯も年に120軒ペースで増えていき、最大2,687軒にまでなりました。東京でこの軒数は、今のセブンイレブンと同じぐらいの密度なんですが、1968年をピークに減り始めるんです。その要因は、高度経済成長期で団地がどんどん建てられてユニットバスがつき、家風呂率が上がったから。僕が生まれたのは1980年で、当時もまだ2,400軒ほど銭湯はあったんですが、さらに急激に減っていくタイミングでもありました。

——三代目となる平松さんの誕生以降は、銭湯は斜陽産業とも言われる時代に突入していくんですね。

平松さん:確かに周囲から「銭湯、大変だね」とよく言われましたね。みなさん悪気はないんですけど、バブル景気の頃でもあったので、「銭湯を壊してマンションにしたら一生安泰だね」なんて言われたりもして。当時銭湯は斜陽産業と見なされていましたが、僕自身に見えている風景は全く違いました。なぜなら、小杉湯には祖父の代からの地域の常連さんたちが通ってくれていて、両親も楽しそうに働いていたから。だから、銭湯の未来を憂う世間の声に対して、僕自身はギャップのようなものを感じていましたね。

初代の祖父と平松さんの兄弟たちと一緒に撮った1枚

——小杉湯に訪れるお客さんたちを間近に見て、平松さんは幼い頃から家業を継ぐのは当然という感じだったのでしょうか

平松さん:僕は長男ということもあって、「三代目頑張れよ!」と子どもの頃から周りの人に言われていたので、継がなきゃいけないんだろうなとは思っていました。ただ、やっぱり小杉湯の跡継ぎというのは重荷でもあって、10代の頃はあんまりポジティブに捉えられていませんでした。自分の将来が決まっているのは、人生をコントロールされているように感じていて。そこで、将来的には跡を継ぐ前提で、20代のうちは社会で挑戦させてほしいと、大学卒業後はいったん住宅メーカーに就職をしたんです。

——住宅メーカー業界に興味があったんですか?

平松さん:漠然と30歳ぐらいで小杉湯を継ぐんだろうなと思っていたので、社会で働ける時間はあまり長くないと思っていました。だから入社してすぐに挑戦できるような仕事が良いと思ったんです。一番挑戦し甲斐があって成果も出せるものを考えたら、大きいものを売ることでした。それで選んだのが、物件の売買ができる不動産営業だったんです。

——実際に社会に出てみていかがでしたか?

平松さん:大学を卒業してそのまま銭湯を継いでしまうと、世界というか自分の視野が狭くなってしまうんじゃないかという危機感や、社会から切り離されてしまうんじゃないかという怖さがあったので、経験しておいて良かったですね。また、住宅メーカーでやっていた仕事はいわゆるB to Cだったので、B to Bでもさらなる挑戦がしたいと思い、仲間と一緒にベンチャーを創業したことも大きかったですね。どちらの仕事にも共通していたのがお客さまに向き合うこと。人の気持ちに寄り添えるような仕事が、自分に向いているということにも気付けました。

どうして人と向き合うことが好きなのかを考えたら、地域の人たちと長く深く向き合う銭湯という環境で育ち、人と接することに昔から抵抗感を持たずにいられたからかなと。銭湯はその街の縮図になっていて、いろいろな世代・職業の人が集まる場所なんです。育った環境や価値観の異なる人たちが一堂に会するのに、みんな裸で湯に浸かってしまえば争いなんて起こらない。そんな姿を幼少期から目の当たりにしているから、僕は世の中に悪い人はいないという感覚があるんです。いざ就職して社会に出ることで、自分のそういう思考に気付くことができたのは大きかったですね。

平松さんのフラットな人柄は、銭湯が当たり前にある環境で培ったものかもしれない

銭湯は開かれた場というより、誰にも閉じない場

——平松さんが正式に小杉湯を継いだのは、2016年の36歳の時ですよね。継ぐことを決心した理由は何でしょうか?

平松さん:当初小杉湯を継ごうと思っていた30歳から後ろ倒しになりましたが、年齢的にそろそろだよねというのがありました。だけど、一番大きかったのは娘の言葉。当時3歳だった娘と一緒に遊んでいたら急に、「お父さん、お仕事行かないで」と言われて。その頃、僕はベンチャーで働いていて、朝早くに出て夜遅くに帰るのが当たり前でした。振り返ってみると、僕自身は学校から帰ると両親が家にいる環境で育っていて、いつも「おかえり」って言ってもらえていた。だから自分も娘に、「ただいま」じゃなく「おかえり」って言ってあげたいと思ったんです。

愛娘の話をする時、平松さんの頬は緩む

——なんとも素敵な話ですね……。平松さんが小杉湯で働き始めた2016年当時は、今ほど銭湯ブームが来てなかったのでは?

平松さん:そうですね。ですが、2015年頃に「東京銭湯」というWEBメディアが登場したり、京都の「サウナの梅湯」の経営を湊三次郎さんという外部の方が引き継ぐ動きがあり、2016〜17年にかけて銭湯やサウナが盛り上がっていったんです。僕からしたらずっと斜陽産業と言われ、継がなきゃいけないというやや後ろ向きな想いも抱えていた時期に銭湯にブームが来て、若い世代にも興味を持ってもらえたことがすごく衝撃的だった。そして何より、そういった動きに勇気をもらえたんです。

もちろん、銭湯が盛り上がっているこのチャンスを逃したら、また斜陽産業に戻ってしまうんじゃないかという不安もありました。そしてちょうどその頃、小杉湯の隣に祖父が所有していた、築40年ほどの風呂なしアパートを解体しようと動き始めていて。祖父が「小杉湯の施設にしてほしい」という遺言を残していていたので、ここをどうにか活用したいと思っていたんです。どんな施設にするかは未定でしたが、解体するためにまずは住んでいる方たちに立ち退きをお願いし、それがすんなりと進んだこともあって、解体まで1年間空き家になることが決まりました。

——どういう施設にするかを考える時間が1年間できたんですね。

平松さん:考える猶予ができたというより、本当に考えなきゃいけなくなったという感じです。そんな時に知人に紹介されたのが、建築家の加藤優一さんでした。彼はもともと高円寺に住んでいて小杉湯を好きでいてくれて、街づくりやコミュニティづくりが得意だったんです。それで彼に相談してみたところ、小杉湯に通ってくれているクリエイターやアーティストに利用してもらえるような、風呂なしアパートならぬ、1年間限定の銭湯付きアパートメントにしようと提案してくれました。それで2017年2月に始まったのが、「銭湯ぐらし」というプロジェクトです。

解体が決まったアパートで「銭湯ぐらし」というプロジェクトがスタートした

——銭湯ぐらしは、どんなプロジェクトなのでしょうか?

平松さん:「自分たちの暮らしを自分たちの手で作ろう」というテーマで、小杉湯でバイトしていた人や常連さんなどがアパートに住んだり、創作活動の場として二拠点的に使ってもらって、自由にアウトプットしていくプロジェクトです。住民たちは僕自身が接点がある人たちではなかったんですが、小杉湯に来てくれる方々がいかに多様なのかが一気に可視化されたのも面白かったですね。そこまで予想していなかったんですが、銭湯ぐらしに参加したミュージシャンが銭湯を会場に毎月ライブを行ったり、アーティストがアパートをアトリエにして作品を制作したり、民泊を運営してみたりと、それぞれの専門性と銭湯の掛け算による多彩なプロジェクトになっていったんです。今では売れっ子イラストレーターの塩谷歩波さんもその中のひとり。銭湯ぐらしで銭湯をイラストで図解した「銭湯図解」を制作しながら、小杉湯の番頭として活動していました。

塩谷歩波さんが描いた小杉湯の図解。小杉湯にディスプレイされている

——そんなにいろいろな人が小杉湯に集ってくるのはなぜでしょうか?

平松さん:80年以上続いている銭湯という場所の力だと思います。小杉湯は街に開けている場所というより、誰に対しても閉じない場所なんですよね。高円寺という多様な町の、誰にも閉じない銭湯という場所だからこそ、いろいろな人を受け入れる力があるのかもしれません。それができるのは、お客さんとして、ファンとして小杉湯に関わってくれているみなさんの強い気持ちがあってこそだろうと思います。みなさんの中に小杉湯のある暮らしという共通体験があって、小杉湯に救われたという声も多くいただくんです。救われたから何か貢献したいと言ってくださる。銭湯は本来、家に風呂がなかった時代のビジネスモデルなのに、2016年になっても好きでいてくれる方々の声がこんなにもあるのなら、小杉湯を再定義しなければいけない。そう思って立ち上げたのが、高円寺を拠点とする方々のインタビュー記事を掲載する「ケの日のハレ」というWEBメディアでした。

WEBメディア「ケの日のハレ」では、アートディレクターや建築士など高円寺にゆかりのある人々のインタビューが掲載されている

小杉湯のファンが繋がり、株式会社「銭湯ぐらし」設立

——「ハレの日のケ」に対し、「ケの日のハレ」って面白いですね。どんな思いが込められているんでしょうか?

平松さん:ハレは非日常、ケは日常という意味ですが、家にお風呂が当たり前にある現代の銭湯は、連続する日常にささやかな幸せや贅沢を感じられる場所。小杉湯が生み出している環境はまさに、「日常の中の非日常」=「ケの日のハレ」だと思いました。今の世の中ってSNSで他人と比較してしまうため、自己肯定感を高めたくなりがちだと思うんです。だけどそれって、同時に自己否定してしまう人も増やしてしまう。そんな現状に悩んでいる人が、小杉湯という閉じない場所でありのままの自分を受け入れてもらって救われた、と言ってくれることが多い。日常の中にありながら現実とは切り離して幸せを実感してもらえる場所、それが小杉湯という環境なのかもしれない。そう思って「ケの日のハレ」という名前を選びました。

——小杉湯では単にお風呂に入るだけではなく、日常の中の小さな幸せを実感できる場所なんですね。

平松さん:もちろんコミュニケーションのために銭湯に行くわけじゃないですけど、小杉湯に通っているうちになんとなく顔見知りになって他愛もない話をするようになったり、たとえ会話をしなくてもお客さん同士が自然と目を合わせて挨拶するようになったり、「またあの人、来てるな」くらいのサイレントコミュニケーションが発生するわけです。しかも一人で好きなときに来ることができる。パブリックの場やSNSでもない、中距離的なちょうどいい関係性が小杉湯にはあって、そこに救われたという若い方がすごく多いんです。

名物のミルク風呂など3種のお風呂と水風呂を用意する
男湯では掲示板で大喜利が行われている
女湯ではお悩み相談の掲示板も

——なるほど。平松さんのその分析力はどこで培われたものですか?

平松さん:銭湯ぐらしをスタートしていろんな人たちが集まり、そこでみんなが感じていた小杉湯の風景について話し合っているうちに蓄積されていった言葉から生まれたものですね。基本的には雑談の積み重ねですが、銭湯ぐらしのメンバーはそれこそ1年間毎日銭湯に入るので、日常に余白のようなものがあることが大事だと実感しているんです。そうした中で銭湯の新しい可能性を事業展開しようという話になり、銭湯ぐらしは「株式会社銭湯ぐらし」になりました。

あくまでも小杉湯のファンがつながって作った会社なので、僕自身は経営にタッチはしていませんし、小杉湯も資本に入っていません。唯一、株式会社銭湯ぐらしにお願いしたのが、祖父の遺言でもあったように、かつて銭湯ぐらしで使っていた風呂なしアパートを改築した建物を、小杉湯の施設として活用してもらうこと。そこでできたのが、小杉湯を楽しみながら日常の余白や余韻を体験できる会員制スペース「小杉湯となり」です。ここでは、小杉湯を中心に半径500メートルぐらいの周囲の人・もの・ことを巻き込み、イベントやコミュニティを形成する企画を行っています。

——株式会社銭湯ぐらしは、小杉湯のお客さんであり、ファンであり、パートナーでもある。とてもいい関係ですね。

平松さん:小杉湯に恩返ししたいと言ってくれ、深い考察ができるメンバーばかりなので、僕が何かしたいというときに話を投げかけると、必ずいい方向に迎えるような答えが返って来るんです。今では40〜50人が関わっているので、僕も知らないうちにさまざまなイベントや企画が生まれていて、打ち合わせが行われていることも多いですね。

小杉湯の隣にある「小杉湯となり」。多彩なイベントが開催されている

小杉湯を中心にした、半径500メートル以内の銭湯のある暮らし

——平松さんが小杉湯を継いで6年が経ちました。経営面は順調なのでしょうか?

平松さん:いえいえ。僕が小杉湯を継いでから6年ではっきりわかったのは、やっぱり銭湯を経営するのは難しいということ。入浴料500円で古い建物も楽しめるから、お客さんにとってはコスパはかなり良いと思うんですが、経営的には非効率なんです。ほかの銭湯を参考にすると、建物をビルに改修して家賃収入を得ながら銭湯を営業する、という方法もあります。だけど、祖父の代からのお客さんもずっと来てくれていますし、近隣の人たちにとって小杉湯は神社仏閣のような存在でもある。建物の修繕費は毎年4〜500万円ぐらいかかるので非常に苦しい状況ではありますが、経営的な利点を得るために建物自体を変えてしまうのは違うと思っています。

小杉湯の建物は、2021年に登録有形文化財に登録された

——そうした厳しい経営状況を乗り越えるために、「銭湯ぐらし」や「小杉湯となり」「ケの日のハレ」など、さまざまな取り組みをされてるんですね。

平松さん:それはありますね。跡を継いだ僕が自分の代で小杉湯を終わらせるわけにもいかないですから。今の小杉湯の建物を守りつつ、50年後も100年後も小杉湯を続けていく、それが僕の唯一にして最大の願いなんです。そのために今後どうしていくのかは、その都度に時代に合わせて考えていくしかないと思っていて。ただ、跡を継いでわかったのは、街に根付いた銭湯という存在が今の社会ですごく求められているし、これからさらに必要性は増していくということ。経営面での苦難はありますが、それと同時に銭湯というものへの可能性も感じているんです。

——街の人や社会に銭湯が求められているとわかった今、小杉湯の次の一手はどう考えてますか?

平松さん:とにかく銭湯の必要性を高めていくことで、小杉湯を中心にした半径500メートルの範囲で人々が行き交う場を作り、お金を流れる仕組みも作っていかないといけないとは思っています。もちろん小杉湯を続けるのが一番の目的ですけど、そのために向き合う範囲は小杉湯の外にも広がっていくでしょうね。まずは、小杉湯となりを持続可能なモデルにしていければと考えています。

——具体的にはどんなことをされる予定ですか?

平松さん:今は働き方も暮らし方も多様化しているので、自宅や職場だけでない居場所を必要とする人も多いと思うんです。だから小杉湯を中心とした街全体を自分の家と捉えることで、いろいろな役割を他所や他者が担う暮らし方があってもいいんじゃないかと感じています。それこそお風呂は小杉湯、書斎や仕事場は小杉湯となりで、といった感じでそれぞれの場所で役割を果たしていく。今、空き家を持っている全国のオーナーさんから活用方法を相談されることも多いので、小杉湯や小杉湯となりで確立した手法を使って、いろいろな地域でも展開できたらいいなと思っています。

平松さんは、小杉湯を媒介にし、日常の余白をつくりながら、街の人たちの笑顔を生み出している
平松佑介(ひらまつ・ゆうすけ)

小杉湯 三代目。
1980年、東京・高円寺生まれ。大学卒業後、住宅メーカーに就職。ベンチャー企業の創業を経て、2016年から家業の小杉湯で働き始める。2017年に株式会社小杉湯を設立し、2019年に代表取締役に就任。1日に1,000名を超えるお客さまが訪れる銭湯へと成長させ、空き家アパートを活用した「銭湯ぐらし」、オンラインサロン「銭湯再興プロジェクト」など銭湯を基点にしたコミュニティを構築。2020年に会員制スペース「小杉湯となり」、2021年にサテライトスペース「小杉湯となり-はなれ」をオープン。同年、WEBメディア「ケの日のハレ」も立ち上げた。

撮影/武石早代
取材・文/田中元

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