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「朝鮮王朝最大の悲劇」はどのようにして起こってしまったのか

  • 2023.1.4
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19代王・粛宗(スクチョン)は、庶民の生活向上に成果を発揮した国王であったが、女性問題で何かと事件を起こしていた。側室の張禧嬪(チャン・ヒビン)を寵愛するために正室の仁顕(イニョン)王后を廃妃にしたり、その5年後に復位させたりしている。さらには、淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏の告発を受けて張禧嬪を1701年に死罪にした。

そんな粛宗は1720年に世を去り、次の国王になったのが張禧嬪の産んだ20代王・景宗(キョンジョン)だった。とはいえ、4年で急死してしまった。彼には息子がいなかったので、異母弟だった英祖(ヨンジョ)が21代王として即位した。彼の実母は淑嬪・崔氏である。

英祖は名君にふさわしい善政を行なった。妻は貞聖(チョンソン)王后である。彼女は子供を産んでいないので、側室の映嬪(ヨンビン)・李(イ)氏が産んだ王子が英祖の後継者となった。それが荘献(チャンホン)であ。

彼は頭脳明晰で世子(セジャ)に選ばれた。ただし、10代前半で老論(ノロン)派を批判してしまった。当時の老論派は政権の中枢を担っていて絶大な勢力を誇っていた。そんな老論派を敵にまわしてしまったのが荘献の危ないところだった。

しかも、彼は素行にも問題を抱えていて、側室を殺したこともあった。

『ヘチ 王座への道』ではチョン・イルが英祖を演じた(写真=韓国SBS『ヘチ 王座への道』韓国ポスター)
英祖の激しい怒り

結局、老論派が反撃に出て、荘献は陰謀に巻き込まれてしまった。特に、老論派の高官たちは荘献の悪いところばかりを英祖に悪意的に伝えた。こうして英祖は荘献に強い不信感を持つようになり、息子に対して最後通告の形で「自害せよ」という命令を出した。

そんな王命を受けても、荘献は自決しなかった。英祖の怒りが収まらず、結局は米びつの中に荘献を閉じ込めてしまった。食べ物を与えられなかった荘献はついに餓死した。

ようやく英祖は後悔したが、後の祭りだった。悲しみに沈んだ英祖は、荘献に思悼世子(サドセジャ)という諡(おくりな)を与えた。

しかし、許すのがあまりに遅すぎた。結局、「朝鮮王朝最大の悲劇」は英祖の怒りが激しすぎて起こってしまったのだ。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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