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【朝鮮王朝の意外な裏面史】側室から生まれた二男なのに光海君はなぜ国王になれたのか

  • 2023.1.1

朝鮮王朝の15代王・光海君(クァンヘグン)は、1623年にクーデターで王宮を追放された国王なので、暴君というイメージがずっと先行していた。しかし、その後の歴史研究が進むと、「むしろ名君ではないか」と評価が変わってきた。そういう意味では、印象がガラリと変化した国王である。

彼は14代王・宣祖(ソンジョ)の側室の二男として生まれた。普通なら国王になるのが難しい立場だが、どのような経緯で国王になれたのだろうか。即位に至る経過を見てみよう。

父親の宣祖は朝鮮王朝で初めて側室から生まれた国王だ。13代王まではすべて国王の正室から生まれていたのだ。しかし、宣祖は庶子の出身である。朝鮮王朝には厳格な身分制度があり、庶子出身者はほとんど出世できない。そんな庶子から国王になったことで、宣祖は常にコンプレックスを持っていた。

それだけに、世子(セジャ)は正室が産んだ息子にしたいと熱望していたが、宣祖の正室は子供を産まなかった。仕方がないので、側室が産んだ王子の中から世子を選ばざるを得なかった。

候補は2人。臨海君(イメグン)と光海君である。2人とも同じ側室から生まれた兄弟で、臨海君が長男だ。

『ポッサム~愛と運命を盗んだ男~』ではキム・テウが光海君を演じた( © 2021 MBN. All Rights Reserved)
光海君は本当に暴君なのか?

順番から言えば、臨海君が選ばれるのが普通だ。しかし、彼は性格がやや粗暴だった。二男の光海君のほうが優秀だったために、光海君を推す声が大きくなった。

1592年に朝鮮出兵が起こった。その際、臨海君は加藤清正の軍の捕虜になってしまった。彼にとって大変な屈辱であり、釈放された後も酒浸りになって生活が乱れた。

逆に光海君は、地方で義勇軍を組織して戦功をあげた。光海君の評価がとても高くなり、最終的に彼は世子として確定した。

それなのに、宣祖はまだ嫡子の世継ぎにこだわっていた。最初の正室が亡くなった後、彼は仁穆(インモク)王后を新たな正室に迎えた。彼女は1606年に宣祖の嫡子を出産した。それが永昌大君(ヨンチャンデグン)である。宣祖はこの子を光海君と代えて世子にしようと思っていた。しかし、宣祖は1608年に急に亡くなってしまった。

仁穆王后も、ぜひ我が子を次の王にしたかったことだろう。ただし、永昌大君はまだ2歳で言葉も話せなかった。国王になるのは、とうてい無理だった。

こうして光海君は15代王として即位した。後にクーデターで廃位となるのは15年後のことだ。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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