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「昭和天皇は突然吹きさらしの屋上に現れた」新年一般参賀が今の形に定まった意外すぎるきっかけ

  • 2022.12.23

コロナ禍で開催が見送られていた新年一般参賀が、来年1月2日、3年ぶりに実施される。神道学者で皇室研究家の高森明勅さんは「新年一般参賀が今の形になるまでには変遷があり、昭和天皇の意外な行動がきっかけとなっている」という――。

1969年1月2日、新年一般参賀の人たちに応えられる天皇ご一家。(左から)常陸宮正仁さま、皇太子さま(今の上皇さま)、天皇陛下(昭和天皇)、皇后さま(香淳皇后)、皇太子妃美智子さま(今の上皇后さま)、常陸宮妃華子さま
1969年1月2日、新年一般参賀の人たちに応えられる天皇ご一家。(左から)常陸宮正仁さま、皇太子さま(今の上皇さま)、天皇陛下(昭和天皇)、皇后さま(香淳皇后)、皇太子妃美智子さま(今の上皇后さま)、常陸宮妃華子さま
3年ぶりの一般参賀は倍率10.6倍の狭き門

長年、1月2日には皇居で「新年一般参賀」が行われてきた。皇居・宮殿のベランダに天皇・皇后両陛下が他の皇族方とご一緒にお出ましになり、広く国民から祝賀をお受けになる。令和になってからは、令和2年(2020年)に行われ、6万8710人の国民が参賀に詰めかけたものの、それ以降はコロナ禍の影響で実施が見合せられてきた。

来年は、なおコロナ禍に配慮して参賀人数を大幅に制限しながらも、やっと再開されることになった。当日は、午前・午後あわせて6回のお出ましが予定されている。昨年に成年を迎えられた敬宮としのみや(愛子内親王)殿下が初めて参賀の場にお姿を見せられるので、それを楽しみにしている人も多いのではないだろうか。

参賀の人数は1回ごとに抽選で選ばれた1600人程度に絞られる。これに対し、事前申し込みをした人々の数は10万2000人余りだったようで、倍率は10.6倍だったという(申し込みの締め切りは11月18日だった)。狭き門だ。

新年一般参賀が再開された機会に、戦後に新しく開始されたこの行事がどのような経緯で現在のような形で落ち着くことになったのか、簡単に振り返ってみよう。

一般参賀の変遷、7つのステップ

一般参賀という行事が今のような形で定着するまでの流れを整理すると、およそ以下のような7つのステップを踏んできたことが分かる。


ステップ1:一般の国民が皇居の中に入って参賀できるようになった(昭和23年[1948年]1月1日から)。

ステップ2:参賀のために皇居に参入した国民の前に昭和天皇がお姿を見せられた(同年1月2日から)。

ステップ3:香淳皇后のお出ましも恒例化する(昭和26年[1951年]1月1日から)。

ステップ4:新年一般参賀の日取りがそれまでの1月“1日”から1月“2日”に変更され、それが固定化する(昭和28年[1953年]から。最初の昭和23年[1948年]だけ例外的に1月1日・2日の両日行われた)。

ステップ5:皇后以外の皇族方もお出ましになり、それが恒例化する(昭和35年[1960年]から。ただし4月29日の「天皇誕生日一般参賀」では前年から)。

ステップ6:現在の宮殿の東側の広場(東庭とうてい)で参賀が行われるようになる(昭和44年[1969年]から)。

ステップ7:昭和天皇がマイクを通して参賀者に対して「おことば」を述べられるようになる(昭和57年[1982年]から。ただし天皇誕生日一般参賀では前年から)。

では、これらのステップを1つずつ取り上げて説明しよう。

一般国民が皇居の中へ

まずステップ1。

そもそも戦前には身分の制限が厳しく、皇居の中に一般の国民が入ることは認められていなかった。しかし、昭和22年[1947年]5月3日に日本国憲法が施行されてからは、国民一般から等しく参賀を受けるべきであるとの考え方により、翌年の正月からそれを実施することになった。

昭和23年[1948年]1月1日、初めて新年一般参賀が行われた(当時は「国民参賀」と呼んだ)。もともと正午から開門の予定だったが、参賀者がすでに数千人も集まっていたので、15分早めて開門した。宮内府(昭和24年[1949年]6月1日から宮内庁)としては、皇居正門から参入した国民は、鉄橋付近の特設記帳所で住所・氏名を記帳した後、再び正門から退出する、というコースを予定していた。しかし、参賀の人数が予想外に多かったので、混乱を避けるために、正門に戻らずに、そのまま戦災で焼け落ちた明治宮殿の焼け跡と宮内府の庁舎前を通りすぎて、坂下門から退出するコースに変更された。

この日の一般参賀の様子は昭和天皇に報告され、天皇は大変喜ばれたという。参賀者の正確な数は分からないが、およそ6、7万人と推定されている。

この当時、明治宮殿が焼失したため、昭和天皇は宮内府庁舎の2階でご公務にあたっておられた。このことと、参賀のコース変更がステップ2につながる。

「せっかく国民が来ているのだから」昭和天皇が屋上へ

次にステップ2。

同じ昭和23年[1948年]1月2日、前日に引き続き一般参賀が行われた。新年一般参賀が2日続けて行われたのは、この年だけの例外だった。

この日は、最初から参賀者は坂下門から退出するように誘導された。宮内府庁舎2階のご公務室におられた昭和天皇は、参賀の様子をお聴きになって、「せっかく、国民が来ているのだから、どこからか、その様子を見ることはできないだろうか」とおっしゃった。これに侍従が「屋上へ上がれば見えると思いますが――」と答えると、「では行ってみよう」と早速、庁舎の階段を上って屋上に出られた。侍従はコートを持って後から追いかけた。昭和天皇の驚くべき行動力と言わねばならない。

なお昭和天皇が屋上に上られた日付について、星野甲子久氏『天皇陛下の三百六十五日―ものがたり皇室事典(上)』(昭和57年[1982年])は1月1日とするが、ここでは『昭和天皇実録』(昭和23年[1948年]1月2日条)の日付を採用する(他にも異同がある)。

参賀者は、昭和天皇が国民の様子を見るためにわざわざ吹きさらしの屋上に立っておられるのに気づいて、さぞかし驚いただろう。人々は口々に「万歳」を唱える。すると昭和天皇も、帽子を大きく振ってそれに応えられた。

しばらくして香淳皇后も屋上にお姿を見せられ、お揃いで参賀者にお応えになった。宮内府がまったく予想しなかった光景が展開されることになった。ただし、香淳皇后のお出ましはこの後、しばらくなくなる。

この日の参賀者の総数は約13万~14万人に達した。2日間で20万人もの参賀があった計算になる。その頃の日本の人口は8千万人余りなので、現代の人口規模に換算すると、かなり大きな数字になる。

窓にさしかけたハシゴから屋根に

昭和天皇は参賀の時の国民との距離をもっと近づけたいとお考えになる。

そこで昭和25年(1950年)4月29日の「天皇誕生日一般参賀」から、宮内庁正面玄関の車寄せにさしかけるように突き出た屋根の上に場所を移された。これなら国民との距離は30メールほどに縮まる。しかしそのままでは危険なので、簡単な柵をめぐらし、それに綱を張って、“バルコニー”という体裁を整えた。

『昭和天皇実録』に「宮内庁庁舎正面玄関上二階バルコニー」(昭和25年[1950年]4月29日条)と書いてある場所の実態は、そのようなものだった。

その“バルコニー”にお出になるためには、玄関屋根の位置にあたる2階の式部官長室にお入りになり、官長室の窓にさしかけたハシゴを登って屋根の上に出られたという。天皇ご自身がわざわざハシゴを登ってお出ましだったとは、当時の国民は誰も想像できなかっただろう。そのハシゴは木製で、この日のために特別に作った取り外し可能なものだった。

このバルコニーからだと、国民は昭和天皇のご表情を拝見できた。一方、昭和天皇からも国民一人ひとりの顔が見えた。昭和天皇は屋根の上を右に左に移動されて、少しでも国民に近づこうと柵ぎわまでお寄りになった。国民もこれに応じて、一段と大きな声で「万歳」を唱え、拍手した。しかし宮内庁の役人としては、お足元が危なっかしくてヒヤヒヤしていたようだ。

ちなみに、このバルコニーにお出ましになっていた頃の昭和天皇のご年齢は、50代前半だった。

皇后もバルコニーに

ステップ3。

香淳皇后は、昭和23年(1948年)1月2日の一般参賀にお姿を見せられて以降、しばらくお出ましはなかった。しかし昭和26年(1951年)1月1日に宮内庁玄関バルコニーにお立ちになってからは、ご体調などが許すかぎり、お出ましになることが恒例化した。

サンフランシスコ講和条約が昭和27年(1952年)4月28日に発効し、貞明皇后(大正天皇の皇后)崩御ほうぎょ(昭和26年[1951年]5月17日)の喪が明けた翌昭和28年(1953年)1月2日の参賀では、皇后は初めて金茶地色に鳩模様の和服を召され、人々に新鮮な印象を与えられた。

参賀者が殺到して死傷者も

ステップ4。

講和条約の発効により、日本は独立を回復し、国際社会に復帰した。そのため、1月1日に「新年祝賀の儀」が憲法に定める国事行為の「儀式」として位置付けられ、その中に外国の使節から祝賀を受けることも組み込まれて拡充されたことから、同日の一般参賀は昭和28年(1953年)以降、翌日の2日に行われるように変更された。

ちなみに、1月2日に変更されて最初の昭和28年(1953年)の新年一般参賀に香淳皇后が和服でお出ましになったことは先に紹介したが、独立回復後初めての参賀であり、しかも前年の参賀が貞明皇后の喪のために行われなかったという事情も重なったことから、じつに64万2200人(皇宮警察調べ)という驚くべき数の参賀者があった(「読売新聞」昭和28年[1953年]1月3日付)。

なお、その翌年昭和29年(1954年)には参賀者が皇居正門石橋に殺到し、16名が死亡し(のちに1名が加わる)、60余名が負傷する痛ましい「二重橋事件」が起きている。一般参賀にともなう最大の悲劇だった。

皇太子ご夫妻ら、ほかの皇族方も

ステップ5。

昭和34年(1959年)の「天皇誕生日一般参賀」から皇后以外の皇族方もお出ましになり、それが翌年から新年一般参賀でも恒例化した。

昭和34年(1959年)の天皇誕生日一般参賀の時には皇太子(今の上皇陛下)、皇太子妃(今の上皇后陛下)、義宮よしのみや(正仁まさひと親王殿下、昭和天皇のご次男、常陸宮殿下)、清宮すがのみや(貴子たかこ内親王殿下、昭和天皇のご4女、後に島津久永氏とご結婚)がお出ましになった。

「パチンコ玉事件」と「発煙筒事件」

ステップ6。

参賀の場所は「二重橋事件」の後、昭和30年(1955年)から皇居広庭(明治宮殿跡地)に移った。昭和天皇・香淳皇后は、お立ち台の上に立たれて国民の祝賀にお応えになっていた。

その後、現在の宮殿(昭和宮殿)の造営が始まったので、昭和39年(1964年)から43年(1968年)まで一般参賀が行われなかった。宮殿の落成式は昭和43年(1968年)11月14日だった。

こうして翌年から、新しく完成した宮殿の東庭で参賀が行われる現在の形が定まった。これまで見てきたように、一般参賀という行事の方が昭和宮殿の造営より先行したので、宮殿は一般参賀が行われやすいように設計されている。この事実は意外と知られていないかもしれない。

ところが、宮殿が新築されて最初の参賀が行われた昭和44年(1969年)1月2日に、不祥事が2件も起きている。「パチンコ玉事件」と「発煙筒事件」だ。

パチンコ玉事件は、この日の第1回のお出ましが終わる間際に起きた。昭和天皇のお立ち位置の27メールほど前方にいた男が手製のゴムパチンコ(スリックショット)で天皇を狙って4個のパチンコ玉を発射し、そのうち2個がお立ち位置の直下のベランダ縁に当たった。実行犯はその場で皇宮護衛官に取り押さえられた。

特殊ガラスによる風防室の設置へ

この男は、傷害致死の前科があり、この事件の裁判では、法廷で検事に小便をかけ、判事に唾を吐きかけるなどの狼藉を働いている(刑は懲役1年6カ月)。

いずれにせよ、警備上の大失態だった。しかも、事件はそれだけにとどまらなかった。発煙筒事件が続けて起こったのだ。

これは、第4回のお出ましの直後、お立ち位置から53メールほど離れた地点で、発煙筒に火をつけて投げつけ、そのまま犯人が逃走したという事件だった。皇宮護衛官がただちに発煙筒を踏み消したものの、犯人は取り逃がしてしまった。しかし後日、アナーキスト団体のメンバーとされる犯人2人を逮捕している(刑は懲役4カ月と3カ月)。

新しい宮殿が完成して最初の参賀でこれらの事件があったために、同年の「天皇誕生日一般参賀」では、厚さ10ミリ余りの硬質ガラスの壁が使用され、翌年の新年一般参賀からは、特殊ガラスによる風防室が特設され、その中で国民の参賀にお応えになることになった。

かつて式部官長室の窓にハシゴをかけ、玄関屋根上バルコニーで国民に少しでも近づこうと柵ぎわまで近寄られた昭和天皇のお気持ちを拝察すると、このような形で国民の参賀に応えなければならないことは、さぞや残念に思われただろう。

天皇からの「おことば」が始まる

ステップ7。

一般参賀の際に、天皇がマイクを通して直接、国民にお声をかけて下さることになった。その最初は昭和天皇が80歳になられた昭和56年(1981年)の「天皇誕生日一般参賀」の時のこと。

「今日は誕生日を祝ってくれてありがとう。大勢の人が来てくれてうれしく思います。これからも皆が元気であるよう希望します」

これが一般参賀での初めての「おことば」だった。参賀に集まった人々はシーンとして天皇のお声を拝聴した。そしておことばが終わると一斉に「万歳」を唱えた。この時、私もその場にいて、お声を謹聴した。あの時の情景は今も鮮やかによみがえってくる。

2019年1月2日の新年一般参賀
※写真はイメージです
「今年もよい年であることを希望します」

宮内庁当局は当初、おそらく80歳のお誕生日かぎりの特例と考えていたのではないだろうか。昭和天皇のおことばのために、職員がスタンドマイクをわざわざ運んでいた。しかし、その翌年の新年一般参賀でも天皇はおことばを述べられた。

「新年おめでとう。今年もよい年であることを希望します」

これ以降、おことばは恒例化し、マイクもスタンド式から備え付けマイクへと変更される。

以上のような経緯で、コロナ禍前の新年一般参賀の形が定着することになった。

コロナ禍で参賀がいったん行われなくなる前、令和に入って最初の新年一般参賀(令和2年[2020年])での天皇陛下のおことばは次のような内容だった。

新しい年を迎え、皆さんと共に祝うことをうれしく思います。
その一方で、昨年の台風や大雨等などにより、いまだ御苦労の多い生活をされている多くの方々の身を案じています。
本年が、災害のない、安らかで、良い年になるよう願っております。
年の始めに当たり、我が国と世界の人々の幸せを願います。

来年の新年一般参賀では、事前申し込みが必要な宮殿東庭での参賀とは別に、午前9時30分から午後3時30分まで宮内庁庁舎前の特設記帳所で、事前申し込みなしでも記帳を行うことができる。坂下門から参入して、桔梗ききょう門、大手門、乾いぬい門のいずれかから退出するというコースが用意されている。

私も国民の一人として記帳の列に加わるつもりだ。

高森 明勅(たかもり・あきのり)
神道学者、皇室研究者
1957年、岡山県生まれ。国学院大学文学部卒、同大学院博士課程単位取得。皇位継承儀礼の研究から出発し、日本史全体に関心を持ち現代の問題にも発言。『皇室典範に関する有識者会議』のヒアリングに応じる。拓殖大学客員教授などを歴任。現在、日本文化総合研究所代表。神道宗教学会理事。国学院大学講師。著書に『「女性天皇」の成立』『天皇「生前退位」の真実』『日本の10大天皇』『歴代天皇辞典』など。ホームページ「明快! 高森型録」

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