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2011年、アウンサンスーチーが『VOGUE JAPAN』に語った激動の人生。

  • 2015.11.10
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愛犬、タイチトーとともに。タイチトーは次男のキムが2010年にヤンゴンで見つけ、母に贈った雑種犬。「キムがタイチトーと名付けてくれました。カクテルの名前が由来なんですよ」と、息子の話になると途端に顔じゅうが優しさにあふれる。自宅軟禁の間は、ラジオとテレビ(ビルマの国営放送のみ)を聴くことだけが許されていたこの家も、タイチトーがやってきて随分とにぎやかになった。 

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インタビューが収録されたのは、自宅軟禁が解除された直後の2011年3月。ヴォーグ ジャパンが焦点をあてたのは、人々を牽引する指導者としての強い姿だけでなく、ひとりの女性としての素顔。彼女の長年の親友を介して、それまでメディアにはほとんど公開されたことのない自宅での取材が実現した。今だからもう一度読みたい、アウンサンスーチーさんの激動の物語を再録。

『VOGUE JAPAN』2011年6月号転載。

ーー今日はお忙しいなかインタビューのお時間をとっていただき、ありがとうございます。
「まず最初に、あなたたちの国に起こった震災に対して、心からのお見舞いを申し上げます。私には日本にたくさんの友人がいますし、日本の皆さんからは長い間にわたってたくさんの支援をいただいてきましたので、とても心を痛めています。私は日本の皆さんから非常にたくさんの『KINDNESS』をおそらくあなた想像する以上にーとても頻繁にいただいています。物質的なことだけでなく、精神的な支援も含め、日本からはたくさんの『KINDESS』をいただき、それに随分と支えられてきました。日本の人たちは、他者に対する深い共鳴、共感ができる人たちですよね。」

ーーこれまでに受けた「KINDESS」にまつわる印象的なエピソードはありますか?
「ひとつのエピソードを挙げるのはとても難しいです。というのも『KINDNESS』は、とても小さなことであったりします。むしろ必ずしも何か大きなものである必要はないですしね。でも、もしひとつ何かを挙げるとしたら、私に手紙を書いてくださった方々のことをお話ししたいと思います。私が自宅軟禁されているに定期的に手紙を書いてくださる方がいらっしゃいました。その女性は、手紙が私に読まれることがないことを知っていた、それでも書き続けてくださった。私がその手紙に何が書かれているかも、その手紙が書かれたことすら知ることがないのに、です。自宅軟禁中に定期的にお手紙を書いてくださる方は、日本にもいらっしゃいました。私はいつもそのことをとてもありがたいと思っていました。その手紙を受け取ることができないとしても、それは本当にありがたいことでした。」

ーー手紙を受け取ることができなくても、その「KINDNESS」だけはしっかりとあなたに届いていたんですね。
「そうです。そして、手紙が届かないなかで、どうにかして別の手段で私とコミュニケーションを取ろうと努力してくださった方もいました。そうやって努力してくださるお気持ち、そうやっていろいろな手を尽くしてくださるというお気持ちもまた『KINDNESS』でした。私は『LOVE』は、良くも悪くもなる身勝手なものだと思います。『LOVE』には条件がつくこともある。環境や状況によって変わったり、自分の欲望を満たすためのセルフィッシュな『LOVE』になることもありますよね。『KINDNESS』は、純粋な善意であり、普遍的なものです。見返りを期待せず相手を思いやる気持ちが、『KINDNESS』なのだと思います。」

ーー私はビルマに入国してまだ2日ですが、多くの方々に日本での震災に対して、とても優しいお見舞いの言葉をいただきました。ビルマでも日本の震災のことは大きく報道されたのですね。 
「ビルマ語で放送されるラジオのニュースで聴いたのですが、何人もの在日ビルマ人がこう言っています。『日本人は、非常にUNCOMPLAININGである』と。文句を言わず、やるべきことをやる人々だ、と多くの在日ビルマ人が讃えています。そしてビルマの人はそんな日本人の行動を見て、いかにいつも自分たちが文句ばかり言って何もやろうとしていなかったかということに気づいた、と言っているんです。 」

ーー私たち日本人が我慢強いということでしょうか? 
「我慢強いというより、『文句をいう暇があったら働く』というような、もっと前向きな感じだと思います。あなたたち日本人は、文句を言ったりして時間を無駄にするよりも、自ら行動するでしょう。その価値観は日本人の素晴らしい美徳のひとつだと思っています。人や物事をとがめず、やるべきことに対して責任感があることも。」

ーーあなたは京都大学の研究員として、かつて京都にも1年ほど住んでいましたよね。 
「ほぼ1年ですね。私にとって、京都での暮らしはとても素敵な思い出です。日本に住む前から日本の友達は何人かいて、日本人は外国人にはあまり心を開かないものですよ、と言われていたんです。でも日本に暮らしてみて、必ずしもそうでないことに気づきました。皆さん非常にフレンドリーな方々でした。」

ーー京都にもインドにも住み、ニューヨークにも住んでいらした。2人の息子さんを出産したオックスフォードとロンドンにも。 
「ブータンに住んでいたこともあります。」(編集部注:夫である故マイケル・アリス氏はブータンのロイヤルファミリーの教師を務めていた)

ーー初に外国に暮らしたのは、あなたが15歳のときに移り住んだインドでしたね。お母さまのキンチー女史が、在インドビルマ大使として赴任したのがきっかけだったのですよね。
「ええ。そしてまた大人になってからもインドで暮らしたことがあります。家族と一緒に約1年、インドで暮らしました。私がビルマに戻る直前のことです。」

ーー15歳という多感な時期にインドで暮らしたことは、その後のあなたの考え方や生き方に影響を与えましたか? 
「そうですね。まず第一に私にはたくさんのインド人の友達がいて、そして彼らからの影響は確かにありました。そして、インドに暮らしたことでインドの歴史と文化を学ぶ機会を持ち、それはまさに私にとって『ア・ホール・ニュー・ワールド(すべてが新しい世界)』でした。インド本国にありとあらゆる民族がいることも知りました。ビルマにもインド人はいましたが、その人たちだけがインド人だと思っていた私の視野はとても狭いものだったので す。私の母はいつも言っていました。『インドに行けば、民族の違いがどれほど大きいものかがわかる』と。そして確かにインドでさまざまな民族の人たちと出会い、それは私の目を大きくこじあけるきっかけになりました。もちろん目だけでなくハートも。」

ーーあなたは1988年3月にお母さまの介護のために、当時暮らしていたインドからビルマに帰国しました。そしてそのタイミングは偶然にもビルマ変革の時とぴったり重なりました。8月には国中で反政府運動が起こり、それは民主化運動へと発展しました。あなたは帰国前に、ご自身がビルマ民主化運動に巻き込まれていく可能性を予想していましたか? 
「いいえ、もちろんわからなかったです。当時ビルマに帰国したのは、純粋に母の介護のためだけでしたし、そのときはそのことしか頭になかったですね。そして…時同じくして、すべてが起こったのです。」

ーーあなたの夫のマイケル氏(99年に逝去)が書かれた本には、あなたがいつかビルマに戻る日が来るであろうことを彼は結婚前から知っていたと記されています。ビルマ建国の父と呼ばれるアウンサン将軍の娘として生まれたあなたがいつか祖国に帰ることを、彼は知っていたと。 
「まあ、本当? 彼がそれを知っていた、とは思えないのですが(笑)。でもその可能性があることを彼がわかっていたのは確かですね。」

ーーあなた自身も、いつかはビルマに帰り政治活動をする可能性をいつも考えていたのですか?  
「ビルマはいつでも私の第一の祖国でしたし、もしも私が帰国する必要さえあれば、いつでも帰国しよう、帰国したいという想いはありました。」

ーーあなたはその年の9月下旬に仲間とともにNLD(国民民主連盟)を立ち上げ、多くの国民の支持を獲得したものの、軍事政権により自宅軟禁されてしまいます。そして、90年、国連の呼びかけに応じて政府があなたの出国を認めた際にも、一度出国すれば二度とビルマへの入国が認められないという理由から、あなたはビルマに残り闘い続けることを選びました。そして、政府は家族へのビルマ入国ビザの発行を拒否するようになったため、あなたは99年に亡くなった夫の死に立ち会うことも許されませんでした。あなたは、どのようにしてその辛い運命を受け入れたのでしょうか。
「受け入れたのではなく、私はそれを『選んだ』と言おうと思っています。人にはどうしてもべない運命というものがあります。たとえば今回の日本の地震や津波のような自然災害もそうですよね。あなたの人生に起こることを、誰も予期できないしそれを選ぶこともできない。でもそれにどう向き合うか、それはあなたが選ぶもの、だと思うのです。先ほどお話ししたように、日本の人たちは今回の震災に対して、不平を言うのではなく前向きに行動しようとした。その向き合い方を選んだことは、とても素晴らしいと思います。89年、私のビルマ帰国中に、政変は起こりました。そして私はそれに巻き込まれることを自ら選びました。どうしようもなく巻き込まれたのではなくて、私は巻き込まれることを選んだのです。NLDという政党を立ち上げたこともすべて私が自分で選択したことであったと思います。その選択は長く、ときにとても辛い闘いになりました。当時は、それを大変な選択だとは思っていませんでした。もちろんその状況は大変ですが『この状況は、辛い。ならば次はどう行動しようか』と思っていました。」

ーーあなたは以前から「ビルマにおける革命とは、人々のスピリットの革命である」とたびたびおっしゃっていますね。具体的に、どのようなスピリットの革命が必要だと思われますか? 
「変革は、起こるものではなく、あなた自身の中から起こすものなのです、ということです。 ビルマの人は変革を求めています。でもその人たちの多くは、デモクラシーのムーブメントに自分が巻き込まれることを恐れているのも確かです。そこに巻き込まれてしまったら、投獄されるのではないか、職を失うのではないか、家族に危害が及ぶのではないかというあらゆる恐怖があるんですね。まずはその恐れというものへの考え方を変えないといけない。レボリューションというのは、チェンジ。大きなチェンジ。でもそれは、あなたがた一人一人の中から起こすものである、と私は言っているん です。たとえば明日からビルマが民主化されるとする。いきなり政府が『はい、いいですよ、明日から民主化です』と言ったとする。でもそんなことが起こったとしてもその民主化は長く続かないんです。私たち一人一人のスピリットが改革されない限り、それは実現されないと私は考えます。私たちの生き方を変えない限り、それに値するものはもたされないのです。最も大切なことは、変革を起こすのは私でもなくNLDでも、他の何でもない。私自身なのですよ、ということを人々が知ること。もちろん変革をするのは一人ではありませんし、仲間は必要です。仲間や周りからのサポートの大切さを否定するつもりはありません。世界のさまざまな国からのサポートは必要ですし、日本をはじめとする他のアジア諸国からのサポート、国連からのサポートも大切だと思います。しかし、やはり一人一人にコンフィデンス(確信)が必要なのです。コンフィデンスがあれば、人は前に進むことができるのです。日本にはそ れがありました。日本にはこれまでもさまざまな困難があり、そしてそれを乗り越えてきましたよね。 第二次世界大戦後の最も困難なときを生き抜きました。そしてその歴史的な経験と確かな根拠があるから、日本人は「乗り越える」というコンフィデンスがあるのです。もう一度絶対にそれを成し遂げられる、と皆が知っているのです。」アウンサンスーチー(Aung San Suu Kyi)
1945年生まれ。インド、ロンドン、ニューヨーク、ブータン、日本在住を経て88年に母の介護のためビルマに帰国。翌89年、国内の民主化運動を受けて仲間とともにNLDを結党。国民から絶大な支持を集めるが国家防御法により自宅軟禁に処され、不自由を余儀なくされる。91年にノーベル平和賞を受賞。2010年11月に3度目の自宅軟禁が解除され、再びビルマ民主化に向けた活動を始めた。

ーーあなたが今、最も興味を持っていることは何ですか?
「私の一番の関心事は、ビルマ国民だけでなく、ビルマ以外のあらゆる国の人々に、今ビルマで何が起こっているかを詳しく知ってもらうことです。そして、これからどうなっていこうとしているのかも。私たちはマジシャンではありませんから未来のことはわかりません。でも、普通の人たちが普通の暮らしをするために、何が必要か。私たちのこの国がどこへ向かおうとしているのか。政府はそのディレクションを正しいものにしなくてはいけないのです。 ですから、今このときに私たちが最もやらなければいけないことは何か、この国にとってのよりよい未来を迎えるために大切なことは何なのか、という考えを皆が一致させなければいけません。」

ーーこの記事が、日本の人たちがビルマのことを少しでも知るきっかけになればと思います。ビルマ国内のことは、日本でもめったに報道されません。恥ずかしながら私自身も、08年にビルマをハリケーンが襲ったことすら、この国を訪れて初めて知ったほどです。 
「2008年のハリケーンのことですね。20万人以上が命を落としました。メディアの取り上げ方にも問題はあると思います。ビルマにはジャーナリストの数も少ないですから、パブリシティが少ないことは否めません。規模は08年よりは小さいですが、2010年もまた、ビルマ西部でハリケーン被害がありました。ハリケーンはビルマで頻繁に起こっています。日本にとっては津波というものは頻繁に起こっているものだと聞きましたが実際そうなのですか?」

ーー「ツナミ」という言葉が日本語から生まれているくらいですから、他の国よりは津波被害の経験が多いのではないかと思います。
「私の日本語の先生が日本人には怖いものが4つある、と教えてくれたことを思い出しました。それは地震と…。」

ーー「地震、雷、火事、おやじ」?
「そう、それです。思い出しました。でもなぜ雷なのでしょうか。」

ーー落雷して命を落とすこともありますし、火事を引き落とすこともあるからだと思います。
「4つの怖いものの中に津波は入らないのですね。」

ーー津波は地震によって引き起こされるものされるものなので、地震の中に含まれているのかもしれません。 

「なるほど。もちろん最後の『おやじ』の部分は冗談のようになっているわけですが、この言葉は日本人の置かれている自然環境やマインドをよく表している 言葉として、とても勉強になったことを覚えています。」

ーー誰から教わったのですか?
「イングランドにいたときの日本語の先生からです。その先生はそういった、ちょっとした言い回しを引用して、日本という国や日本人の心を伝えるのがとても上手でした。鳥の話も聞きましたよ。家康が最後に出てくる話です。3人の…最初の人は確かとても残酷な…。」

ーー「鳴かぬなら、殺してしまえ」「鳴かぬなら、鳴かせてみよう」「鳴かぬなら、鳴くまで待とう」のホトトギスの話ですか?

「ええ、それです! 『殺す』『努力する』『待つ』の考え方があるんですよね。これには3人の武将のバックグラウンドがよく表れているとも習いました。」

ーーあなたはどのタイプでしょうか。「鳴かぬなら、殺してしまえ」ではないことは間違いなく確かですが…。
「そうですね、それは絶対にない。」

ーーでは、「鳴かせてみよう」でしょうか。
「どうかしら…おそらく…『鳴かせてみよう』と『鳴くまで待とう』の両方(笑)。あ、でもちょっと待って。『鳴くまで待とう』というのはちょっと違うかもしれない。待っているだけというのは考え方として共感できないかもしれません。ただ状況が変わるのを何もしないで待つだけでは何も変わらないですからね。仏教の考え方に、こういうものがあります。もしあなたが何かにおいて成功をおさめたいなら、4つ大切なことがある。まずは、希望を持つこと。何かを欲すること。2つ目は、それを行動に移すこと。何かを欲するなら、待っているだけではいけません。3つ目は、心を正しく持つこと。そして最後は、それに対しての知恵をつけるということです。ごく普通のことなんですよね。まず何かをしたいと思う、そうすると座ってただ夢を見ているだけじゃいられなくなって行動に移そうとする。努力しようとする。そして心を決める。そうしないと目標に集中できないし興味も薄れてしまう。そしてそのためには、それをかなえる術を知る知識も必要だ、ということです。とてもプラクティカルなことでありすぎて、人々は考えつかないかもしれません。私自身も幼い頃から仏教徒の家庭に育ちましたが、年をとって初めて、この教えが非常にプラクティカルなものであることがわかるようになりました。」

ーー日本の映画や本などにもお詳しいですか?
「そこまでたくさんの映画を観たりはしていないですが、ひとつ挙げるなら、とても印象に残っている作品があります。それは、私が生まれて初めて観た日本映画です。あなた、これを聞いたらきっと笑いますよ。」

ーー何の映画か想像もつきません。
「私は幼い頃、同時期に、日本の映画を立て続けに3本観たんです。というのも私の母は、ビルマに映画をもたらした人の一人だったんです。パブリックビューイングという形で、当時日本の映画をビルマの人に鑑賞させるということをやっていました。そこで3本の日本映画を観ました。そのうち2本は戦争映画でした。そして、私の心に残った作品は残りの1つ。それが『ゴジラ』なんです。」

ーーええ! 『ゴジラ』ですか?
「しかも『ゴジラ』の記念すべき第一作目よ(笑)。当時、幼かった私はそれがこんなに世界的に有名な映画になるとは知らなかったですけどね。」

ーー小さい頃に『ゴジラ』を観て怖くなかったですか?
「怖さより、興味深いストーリーの記憶の方が大きいんです。あなたは『ゴジラ』の第一作目を観たことはありますか?」

ーーいいえ、ないです。
「そうでしょう。私は『ゴジラ』の第一作目のストーリーを鮮明に覚えていますから、お話ししましょう。ゴジラが海から 現れて、街をめちゃくちゃに壊し 始めるところから映画が始まるのはご存じですよね。この映画にはある科学者が登場します。私の記 憶によればなかなかグッドルッキングな科学者だった(笑)。子供だった私から見ればですけれどね。彼は科学者で、博士なんです。その彼はかつて自分が発明した、ものすごい破壊力を持った装置を元婚約者の女性に見せるんです。『誰にもこの装置の存在を他言するな』と口止めして。そして元婚 約者の女性はその秘密を守ります。しかしゴジラは人々の命を奪い、すべてを破壊していく。そこで彼女と科学者は考えるんです。『この装置は恐ろしい兵器になり得る。これを公表すれば軍事利用されるかもしれない。でも人々を守るためにこの装置を使うべきなのではないだろうか』と。ゴジラを倒すには、もうその装置を使う以外に方法がないわけです。そしてその葛藤で悩むのです。」

ーー子ども向けの映画だと思っていましたが、とてもシリアスなストーリーなんですね。 
「そうですよ、本当にいい映画なんです。そして科学者は最後には装置を使ってゴジラを倒し、また軍事利用を防ぐため開発者である自らの命も絶ちました。人々を守るために、そして国を守るためにね。この結末は、幼かった私にものすごくたくさんのことを考えさせました。装置の秘密を守ることも大事ですが、そんな状況の中では、もはやその考えが自己満足でしかない、と彼は気づくわけです。それはエゴイスティックなことでしかないのではないか、と。そのストーリーは、私が10歳か11歳くらいのときに観て、ものすごく印象に残っています。ゴジラが街を壊すシーンについてよりも、彼らがタフな決断を迫られて悩むというところのほうが、よほど印象的でした。」

ーーまさか『ゴジラ』のストーリーをあなたから教えてもらうことになるとは思いませんでした。 
「そうよね。もう時間は過ぎていますが、あと2問くらいだったらさらに延長してもいいですよ(笑)」

ーー7年半の自宅軟禁を得て、10年ぶりに息子さんのキムに会ったときのことを教えていただけませんか? 10年ぶりに母と息子が再開して、そのとき最初に交わされた言葉とは、どういうものだったのでしょうか。
「自宅軟禁が解けてから再会するまでに電話でも話していたので、再会時の最初の言葉は『ハロー』でした(笑)。まあそれは冗談として、再会することができた12月までに、何度も電話で話しましたね。そして再会してからは、もう何もかもを話しました。会えなかった時間にお互いに何があったかを全部。」

ーー会えなかった間に、キムは20代から30代になっていたわけですから、見た目も含めて相当変わっていたのではないですか?
「その通りですね。自宅軟禁が解除された後、ずっとキムの写真を何年にもわたって保管してくれていた友達から写真を見せてもらっていたので、再会したとき、見た目に関してはそこまで驚きはしませんでした。ただ、人間にとって最も大きく変わる時期であることは確かですね。喫煙者になっていましたので、タバコは絶対にやめさせたいとは思いますね。」

ーー長い自宅軟禁を経て、ようやく自由になりました。社会とまた接するようになって最も驚いたことは何ですか? インターネットや携帯電話の普及などでしょうか。 

「もちろんそれもありますが、私にとってまず衝撃だったのは、とても多くの20代の若者がデモに参加していたことです。というのも、軟禁前はデモに参加する若者はとても少なかったのです。」

ーーエジプトやリビアでは市民たちが呼びかけあって大きなデモが起こり、そこから政権が倒されるという大きな革命が起こっています。そして次はビルマの番なのではないかと言う人もいます。
「どうでしょうか。答えはとてもシンプル、極めてシンプルだと思います。そのようなことが言われているのは、1988年にビルマでも同じような反政府運動があったからでしょうね。しかし人々が忘れているのは、これを思い出させてくださって感謝しますが、ビルマでは国民に銃が向けられたことです。エジプトはそうではありませんでしたが、リビアの場合はまったく違います。リビアの軍隊は国民に銃を向けています。もちろん軍隊の全部ではありませんが。リビアは今、内戦状態にあると言えると思います。」

ーーエジプトでの革命では、フェイスブックやツイッターが、デモの呼びかけなどに利用され、革命の大きな原動力になったと言われていますよね。
「ええ、私もインターネットに接続することが許されていますので、フェイスブックなどはぜひ活用していきたいと思っています。まだそこまで準備をするための時間がない、というのが実情です。」

ーー今日は本当に長い時間、ありがとうございました。さまざまな困難を乗り越えてきたあなたからのメッセージはとても意味のあるものだと思います。
「こちらこそ。私はいつも日本のことを想っています。どんなに遠く離れていても、私たちは日本の皆さんとともにあります。ぜひ皆さんに、あなたたちならできる、きっとこの困難を乗り越えられる、と伝えてください。」

※このインタビューは2011年3月に収録され、同年6月号に掲載されたものです。アウンサンスーチー(Aung San Suu Kyi)
1945年生まれ。インド、ロンドン、ニューヨーク、ブータン、日本在住を経て88年に母の介護のためビルマに帰国。翌89年、国内の民主化運動を受けて仲間とともにNLDを結党。国民から絶大な支持を集めるが国家防御法により自宅軟禁に処され、不自由を余儀なくされる。91年にノーベル平和賞を受賞。2010年11月に3度目の自宅軟禁が解除され、再びビルマ民主化に向けた活動を始めた。

参照元:VOGUE JAPAN

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