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粛宗が出した王命で高官が心配した「第二の燕山君」事件とは何か

  • 2022.12.4

粛宗(スクチョン)が張禧嬪(チャン・ヒビン)を死罪にしたのは1701年10月のことだ。国王が正式に死罪を告知したときは、高官たちの反対が相次いだ。

それには理由がある。高官たちが前例としたのは、廃妃・尹氏(ユンシ)の一件だ。

尹氏は9代王・成宗(ソンジョン)の正室だったが、数々の陰謀を起こした罪で廃妃にさせられたうえに、最後は死罪となった。

その尹氏の息子が10代王・燕山君(ヨンサングン)。彼は母の死罪に関わった高官たちをたくさん虐殺している。明らかに燕山君は異常であり、虐殺事件は歴史に深く刻まれている。それゆえ、粛宗の高官たちも「悲劇が繰り返されるのではないか」と心配したのだ。

当時、張禧嬪の息子は世子になっていた。それなのに生母が死罪になってしまえば、世子も国王になったときに、「第二の燕山君」を起こすともかぎらなかった。

このように、高官にとっては「怖い前例」があったので、必死になって張禧嬪の死罪を阻止しようとしたのである。

『トンイ』ではチ・ジニが粛宗を演じた(写真=SPORTS KOREA)
自分の意志を変えなかった粛宗

とにかく、「強硬に反対した」という意志表示を記録に残す必要があった。それをしておけば、世子が国王になったときに恨まれる可能性が低いと考えたのだ。いかにも官僚らしい考え方だった。

とはいえ、どんなに高官たちが強く反対しようとも、頑固だった粛宗は自ら下した王命を絶対に変えなかった。

もちろん、王朝の歴史をよく学んでいる粛宗が、尹氏の死罪とその後の虐殺事件をよく知っている。

しかし、粛宗にしてみれば、張禧嬪に対する怒りがあまりに強すぎて、とうてい自分の気持ちを抑えることができなかった。こうして彼は自分の憤慨をそのままにして「張禧嬪の死」ですべてを決着させようとした。

その後も、張禧嬪の死罪への反対は高官たちの間でどんどん大きくなっていたが、結局、粛宗は意志を変えなかった。

こうして、張禧嬪は元王妃でありながら死罪となった。その19年後に彼女が産んだ息子が国王の景宗(キョンジョン)になったが、彼は「第二の燕山君」にならなかった。そういう意味では、賢明な国王であった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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