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球団消滅へ、優勝懸けたダブルヘッダー、同率決戦…プロ野球記憶に残る「ラストゲーム4選」

  • 2022.10.26
近鉄の本拠地最終戦でメッセージを掲げて立ち尽くすファン(2004年9月、時事)
近鉄の本拠地最終戦でメッセージを掲げて立ち尽くすファン(2004年9月、時事)

2022年のプロ野球レギュラーシーズンは、パ・リーグではオリックス・バファローズが最終戦で逆転優勝を決め、セ・リーグでは、東京ヤクルトスワローズの村上宗隆選手が、王貞治さんの記録を抜くシーズン56号本塁打を自身の最終打席で放つというドラマが起きました。

過去にも、シーズン最終戦や本拠地最終戦で、数々のドラマがありました。一般社団法人日本スポーツマンシップ協会理事で、プロ野球球団の運営にも詳しい江頭満正さんに、特に印象的な試合を振り返ってもらいました。(※肩書、チーム名はいずれも当時)

【1】大阪近鉄バファローズ、本拠地最終戦

まずは、プロ野球再編問題で大阪近鉄バファローズが消滅することが決まっていた2004年シーズン、近鉄の本拠地最後の試合を挙げます。

それは9月24日の西武ライオンズ戦でした。スタンドには「ありがとうバファローズ」「ファンを無視するな」などの横断幕が掲げられていました。この時点で近鉄の選手たちは来季どのチームでプレーするのか、来季もプロ野球選手でいられるのか、全く不明の状況でした。

私は当時、近鉄バファローズのモバイルサイト編集長として仕事をしていましたので、消滅してゆくチームを内側から見ることができました。最後のホーム試合を、この目で見るために、満員の球場の記者席に座っていました。

5回裏2対1で西武リード、近鉄の攻撃で松坂大輔投手がマウンドに上がりました。この登板は、防御率のタイトルを確実にするためのものでした。1イニング登板して失点しなければ、2位の岩隈久志投手(近鉄)との差を確実にできたのです。

狙い通り5回を無失点に抑えた松坂投手でしたが、6回もマウンドに上がりました。パ・リーグでライバルかつ盟友だった、近鉄の4番中村紀洋選手と対決するためだと思われます。フルスイングで有名だった中村選手と、松坂投手の最後の対決になる可能性もありました。

松坂投手は1球目149キロのストレートを投げ、中村選手は見送り。2球目150キロのストレートはフルスイングで空振り。3球目149キロのストレートを、中村選手はセカンドゴロとし、松坂投手が投げ勝ちました。松坂投手は全力でストレートだけを投げ込み、中村選手は全力のフルスイングで応える。素晴らしい対戦でした。試合は延長11回裏、一死二塁で、星野おさむ選手のライト線ヒットで近鉄のサヨナラ勝ちと、劇的な試合結果となりました。

試合終了後、監督、選手、スタッフ全員で場内を一周。満員のライトスタンドをバックに記念撮影をしています。その写真で多くの選手が泣き顔だったのが印象的です。梨田昌孝監督はロッカールームで「おまえたちが付けている背番号はすべて、近鉄バファローズの永久欠番だ」と選手たちに伝えたそうです。

この3日後、大阪近鉄バファローズは全ての日程を終えて、全ての選手がユニホームを脱ぎました。プロ野球史に歴史を刻んだチームの消滅の試合として、松坂投手と中村選手の真剣勝負の試合として、忘れることのできない試合です。

【2】10・19ダブルヘッダー

次に挙げるのは、1988年10月19日、川崎球場で行われたロッテオリオンズと近鉄バファローズのダブルヘッダーです。

この試合が始まる前の状況ですが、近鉄は残り2試合。近鉄が2連勝するとリーグ優勝となり、そのまま日本シリーズに進出が決定。1勝1分けでは、勝率で西武が上回り、近鉄の優勝はなくなります。ロッテは最下位がほぼ確定していました。

近鉄の監督は仰木彬氏、ロッテの監督は有藤道世氏でした。1試合目は午後3時開始。3対1で迎えた8回、近鉄が2点を追加して3対3の同点としますが、当時ダブルヘッダーの1試合目は9回で終了する規則でした。もしこのまま9回が終われば近鉄の優勝はなくなります。目前で胴上げをさせたくないロッテも全力でした。

結局、梨田昌孝選手のセンター前ヒットが決勝打となり、1試合目は近鉄が勝利しました。試合が終わったのは午後6時21分でした。

2試合目は午後6時44分開始です。選手も指揮官も一息つく間もなかったでしょうが、2試合目も総力戦となりました。近鉄が6回に1対1の同点に追いつき、7回表に2点近鉄が得点すると、その裏にロッテが2得点し同点。8回表に1点近鉄が得点すると、その裏にロッテが1得点して同点と、膠着(こうちゃく)状態が続きました。

1988年当時のパ・リーグのルールでは、延長戦は12回まで、または試合時間が4時間を超えたら新しいイニングに入らないことになっていました。試合時間によっては9回で終了もあり得るルールでした。

9回が終わった時点で4対4の同点。残り時間を考えると10回で試合終了になる公算が大きかったのです。10回表、近鉄の攻撃は無得点。このまま時間切れになり、近鉄の優勝は夢と消えました。

近鉄が必死だったのは当然といえますが、ロッテにも「最下位なんだから近鉄に花を持たせて」といった、スポーツマンシップにのっとっていない忖度(そんたく)はもちろんありませんでした。優勝が懸かった相手だからこそ、全力でゲームを行い、その姿勢が、球史に残る名勝負を生んだといえるでしょう。

見ている野球ファンにとっても、プレーしていた選手たちにとっても、素晴らしい試合となりました。ロッテのホームグラウンドである川崎球場での開催にもかかわらず、近鉄のホームランにも大きな拍手が起き、観客は両チームの攻防に一喜一憂しました。また、テレビ中継も、この試合を最後まで放送するために、予定番組を短縮するなど、よい協力者にも恵まれました。名勝負はチームだけではなく、観客も、関係者も、多くの人の力がなくては生まれないものかもしれません。

【3】1994年10月8日、巨人対中日 同率決戦

まだクライマックスシリーズがなかった1994年、セ・リーグ首位同士、巨人と中日の優勝決定戦が最後の130試合目となりました。

10月8日、土曜日の午後6時、ナゴヤ球場で試合が始まりました。中日の監督は高木守道氏、巨人の監督は長嶋茂雄氏でした。テレビ局は2日前に急きょ生放送することを決定。報道陣も大勢詰めかけます。長嶋監督が報道陣に「国民的行事」と表現し、野球ファンではない人々まで巻き込みました。

中日の先発は今中慎二投手、巨人先発は槙原寛己投手。中日は通常と同じ継投を選択しましたが、巨人は主力の先発投手を投入して中日打線を抑え込もうとしました。槙原投手の後に斎藤雅樹投手、桑田真澄投手と、シーズン中10勝以上を挙げた投手だけで継投。6対3で巨人が勝ち、日本シリーズに駒を進めました。

この試合の魅力は、それまで起きたことのない、130試合目に同率首位のチームが直接対決して、その勝敗がシーズン全ての成績を決めるという、物語性にあったと考えられます。もちろんスター選手や、監督の人気など、登場人物の魅力も欠かせませんが、特別な試合であることが、人々の注目を集めた最大の要因でしょう。

【4】上原投手の涙

後味の悪い「最終戦」もありました。1999年10月5日、首位とのゲーム差が開き、自力優勝のなくなった巨人対ヤクルトのカード最終戦。プロ野球の話題は選手個人のタイトル争いに移っていました。

この試合で先発した上原浩治投手は、新人投手として20勝目が掛かっていました。ホームラン王争いは、巨人の松井秀喜選手(41本)と、ヤクルトのペタジーニ選手(42本)で争っていました。ヤクルトベンチはタイトル争いを重視し、松井選手を2打席連続で敬遠。巨人ベンチは上原投手の20勝目を優先したのか、ペタジーニ選手の打席で敬遠のサインを出しませんでしたが、上原投手は6回までの2打席を抑えていました。

しかし7回裏、ペタジーニ選手が打席に入ると、巨人ベンチから敬遠の指示。上原投手は指示に従い、外角に大きく外した投球をして、四球を与えました。ペタジーニ選手が一塁に向かっている時、上原投手はマウンドを蹴り上げ、涙を拭いました。自身もタイトルへの挑戦をしていただけに、相手のタイトル挑戦を邪魔するような四球に、自分で納得がいかなかったのでしょう。

ここまで、4つの「最終戦」を見てきました。今季のレギュラーシーズンは終了しましたが、クライマックスシリーズ、日本シリーズと、短期決戦では、シーズンと異なる采配や選手登用が見られるでしょう。細かな違いに注目すると、意外な発見ができるかもしれませんし、新たなドラマを目撃できるかもしれません。

文/構成・オトナンサー編集部

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