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【戦国武将に学ぶ】佐竹義重~勇猛果敢「鬼義重」、外交にも手腕~

  • 2022.10.9
佐竹義重の本拠だった水戸城の跡(水戸市)
佐竹義重の本拠だった水戸城の跡(水戸市)

佐竹氏は清和源氏義光流で、新羅(しんら)三郎の孫昌義に始まるとされています。ただ、源頼朝の挙兵のときには、それに加わらず、所領を没収されました。そうした状況を打ち破り、佐竹氏が頭角を現すようになったのは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した佐竹貞義のときです。貞義が足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、常陸守護職に任命されたのです。ここに、「関東八家」の一つに数えられる常陸佐竹氏発展の基礎が固められました。

信長、秀吉に早くから接近

義重は、父が佐竹義昭、母が岩城重隆の娘で、その長男として1547(天文16)年に生まれています。1562(永禄5)年に家督を継ぎ、1569年の手這坂(てはいざか)の戦いで小田氏治を破り、小田城(茨城県つくば市小田)を手に入れ、戦国大名としての基盤を強化しています。

義重は、戦いに出て野営したときのことを考え、普段から冬でも薄い布団一枚で過ごしていたといい、その勇猛果敢な戦いぶりから、「鬼義重」と呼ばれていたといわれています。

ただ、義重は勇猛なだけでなく、外交戦略にも手腕を発揮しました。常陸から陸奥南部、すなわち南奥に勢力を拡大していくのですが、白河城(福島県白河市藤沢)を攻撃し、1578(天正6)年には次男の義広を白河義親の養子に入れ、白河氏を実質的に支配下に組み込むことに成功しています。

それだけではありません。南奥の岩城(いわき)氏、蘆名(あしな)氏だけでなく、下野の宇都宮氏、壬生(みぶ)氏、那須氏らと同盟を結び、伊達氏や北条氏といった強敵にあたり、1587年には、白河義親の養子としていた義広を、さらに蘆名氏の養子に入れているのです。

普通は、こうした近隣の勢力への対応で終わるところですが、義重は周りの関東だけではなく、中央にも目を向けていました。中央の統一権力として浮上してきた織田信長や豊臣秀吉にも接近し、伊達・北条との戦いを有利に進めようと動いていたのです。

なお、この義重のときに、佐竹氏はそれまでの居城太田城(茨城県常陸太田市中城町)から、本拠を水戸城(水戸市三の丸)に移しています。

1589(天正17)年の会津磐梯山麓摺上原(すりあげはら)の戦いで、蘆名氏を継いでいた義広が伊達政宗と戦って敗れたため、その責任を取る形で自らは隠居し、家督を子の義宣(よしのぶ)に譲りました。ところがその直後に豊臣秀吉の小田原攻めがあり、早くから秀吉に通じていた佐竹氏は、本領を安堵(あんど)されています。義重が早くから中央に目を向けていたことが、幸いしたのです。

家康に直談判、改易免れる

その後、義重は政治の表舞台から退く形となっていましたが、大事なところでもう一働きすることになります。

1600(慶長5)年の関ケ原の戦いのとき、義宣が石田三成と近い関係にあったことから、佐竹氏は家康の東軍には加わらず、西軍寄りの動きをしていました。本来なら、戦後の所領没収は避けられないところでした。

ところが、このとき、義重が自ら上洛(じょうらく)し、家康に面談を求め、その間の事情を説明して、家康の怒りを和らげることに成功。改易(かいえき)ではなく、出羽への国替え減封という比較的軽い処分で済まされたのです。

それだけではありません。義宣が国替えとなって入った地域には、西軍に属して改易された小野寺氏の支配領域が含まれていて、小野寺氏遺臣の不穏な動きも予想されていました。そこで、義宣が久保田城(秋田市)に入ったとき、義重は自ら志願して、不穏な動きのありそうな六郷城(秋田県美里町)に入り、反佐竹一揆に備えたのです。「わが子のためなら命を落としてもいい」という覚悟で臨んだことで、反佐竹一揆は不発に終わりました。

佐竹氏は幕末まで、出羽国の大名として続くことになります。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

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