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ジャン=リュック・ゴダールが愛した、ヌーベルヴァーグな女性たち。

  • 2022.9.18

2022年9月13日に亡くなったゴダール監督の作品には女性の存在が深く関わっている。監督の作品や人生にロマンをもたらしたのは妻として、パートナーとして、あるいは女優として関わった女性たちだ。

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photography:Raymond Depardon/Magnum Photos/aflo

2022年9月13日、91歳で亡くなったジャン=リュック・ゴダールの映画は、女性抜きに語れない。『女は女である』(1961年)、『恋人のいる時間』(1964年)、『男性・女性』(1966年)、『彼女について私が知っている二、三の事柄』 (1966年)......1960年代の作品はタイトルからして女性であふれかえっている。ヌーヴェル・ヴァーグの旗手として、この時期のゴダールは映画の世界に革命をもたらし、鑑賞法まで一新した。ゴダール作品に出演していた女優は時に私生活のパートナーでもあり、ゴダールとともに映画の革新に貢献した。それは同時に新しい恋愛の形も、もたらした。ゴダールは恋愛をひとつの恩恵であると同時に拷問のような苦しみであり、対話であると同時に問題提起であると捉えていた。この恋愛観はカメラの前でも後ろでも変わらなかった。

初期のミューズ、アンナ・カリーナ

ジャン=リュック・ゴダールとアンナ・カリーナ、ローマにて、1962年。photography: Alamy/ABACA

アンナ・カリーナが最初に出演交渉されたのは、ゴダール初の長編映画『勝手にしやがれ』だった。彼女の本名はハンネ・カリン・バイエル。17歳の時、1万フランをポケットに、何のあてもないままモデルを志してデンマークからパリにやってきた。石けんブランド「モンサヴォン」の広告で泡風呂に入っている彼女の姿にひかれたゴダールは、『勝手にしやがれ』に端役で出ないかともちかけた。まだ20歳にもなっていなかったアンナ・カリーナはヌードシーンがあるからと断り、石けんの広告では水着を着ていたし、「私の裸を想像したのはあなたでしょ!」と憤慨した。翌年、ゴダールは再び映画出演をもちかけた。アルジェリアでの拷問の実態を告発した『小さな兵隊』のヒロイン役だ。撮影中にふたりは恋に落ち、アンナ・カリーナとジャン=リュック・ゴダールは、1961年3月3日にスイスのベナンで結婚した。

ふたりはその後、『女は女である』、『女と男のいる舗道』、『アルファヴィル』、『気狂いピエロ』など7作品を撮り、とりわけ『気狂いピエロ』でアンナ・カリーナはいくつもの名セリフを残した。「私に何ができる? どうすればいいの?」これは脚本になにも書かれていなかったため、苦しまぎれにアンナが口にしたアドリブだったそうだ。あるいはジャン=ポール・ベルモンド演じる主人公に言う、「あなたは言葉で話しかける、私は感情であなたを見つめているのに」という素敵なセリフもあった。

「交わさなかった会話」

アンナ・カリーナによれば、ジャン=リュック・ゴダールとは「浮き沈みの激しい」関係だったそうだ。映画のなかで描かれたままの、好きなのに別れ話をしたり、すれ違ったりの繰り返しだった。つらいこともあった。アンナ・カリーナはゴダールの家族から、出身階層が低すぎると嫌われて最後まで受け入れてもらえなかった。さらに妊娠7カ月で流産して子どもを産めなくなる体になる悲劇に見舞われ、生涯忘れられない傷を負った。アンナ・カリーナは2019年に亡くなる前の2018年3月、自分の初監督作品『ヴィヴル・アンサンブル(原題:Vivre ensemble)』(1973年)のリバイバル上映に際し、ジャン=リュック・ゴダールとの関係についてAFPの取材にこんなふうに語っている。「私たちはとても愛しあっていました。でも一緒に暮らすのは大変でした。(中略)『タバコを買ってくる』と出ていって、3週間後に戻ってくるような人でしたから。スマホも留守番電話もない時代でしたしね」と。一方、フランスの「リベラシオン」紙の2018年の取材では、ゴダール作品への出演を振り返って「とどのつまり、ゴダールの作品で語られているセリフは、私たちふたりが交わさなかった会話のようなもの、後世に残る会話なのです」とも語っている。ふたりは1967年12月21日に離婚した。そして、その後、ふたりが言葉を交わすことは(ほとんど)なかった。

アンヌ・ヴィアゼムスキーと五月革命

『ワン・プラス・ワン』の撮影現場でのアンヌ・ヴィアゼムスキーとジャン=リュック・ゴダール。(1968年、イギリス、カンバー・サンズ)photography:  Hulton-Deutsch Collection/CORBIS/Corbis via Getty Images

ジャン=リュック・ゴダールは、ロベール・ブレッソン監督の『バルタザールどこへ行く』の撮影現場でフランソワ・モーリアックの孫娘、アンヌ・ヴィアゼムスキーと出会う。1947年にベルリンで生まれたアンヌは、17歳年上のゴダールの誘いを最初断っていたが、10ヵ月後の1966年6月には彼女の方から手紙を送っている。その後、ふたりは『中国女』を撮り、1967年に同作品が公開される10日前に結婚した。この時、彼女の方は未成年で、立ち会ったのは証人2人だけだった。ジャン=リュック・ゴダールとアンヌ・ヴィアゼムスキーの結婚生活は3年間続いた。折しも、フランスで1968年の五月革命が起きた頃で、アンヌ・ヴィアゼムスキーはのちに著作、『彼女のひたむきな12ヶ月』(2012)と『それからの彼女』(2015)で当時を振り返っている。さらに彼女の著作を基に2017年、ミシェル・アザナヴィシウス監督が、ルイ・ガレルとステーシー・マーティン主演で撮った映画が『グッバイ・ゴダール!』である。

アンヌ・ヴィアゼムスキーが出演し、毛沢東主義の信奉者を演じた『中国女』は、ゴダールが政治色の強い映画へ転向した頃の作品である。アンヌ・ヴィアゼムスキーは2015年、フランス版「マダムフィガロ」誌のインタビューで、この頃のことをこんなふうに語っている。「ゴダールのキャリアの中でこの変容は避けられないものだったけれど、五月革命で時期が早まった。彼が映画から遠ざかろうとすればするほど、私は映画に居場所を見いだした......1968年の五月革命は物事を加速させ、これをきっかけに別れたカップルは多い!」

アンヌ・ヴィアゼムスキーは女優活動を続け、フィリップ・ガレル、マルコ・フェレーリ、ピエル・パオロ・パゾリーニらの映画に出演した。パゾリーニ監督とは『テオレマ』や『豚小屋』を撮っている。1969年6月、『豚小屋』の撮影現場にアンヌ・ヴィアゼムスキーを訪ねてきたゴダールは嫉妬から自殺未遂を図った。翌年、ふたりは離婚した。2012年、著作『彼女のひたむきな12ヶ月』の発売の折にアンヌはフランス版「マダムフィガロ」誌のインタビューを受け、ゴダールと「もう20年も会っていない」と語っている。「私が語るジャン=リュック、私が知っているジャン=リュックは、1967年の彼で、その後の彼は知らない。でも作品はずっと尊敬している」と語っていたアンヌ・ヴィアゼムスキーは2017年10月5日、70歳で亡くなった。

アンヌ=マリー・ミエヴィル、スクリーン外のパートナー

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アンヌ=マリー・ミエヴィルとゴダール監督。(パリ、1985年)photography:Raymond Depardon/Magnum Photos/aflo

アンヌ=マリー・ミエヴィルはゴダールの人生に深く関わっている。1945年、ローザンヌに生まれ、写真家、書店経営者、さらには歌手としてポピュラー音楽のアルバムを2枚出すなど多才な女性だ。ふたりは1972年に出会い、以後10年以上にわたってアンヌ=マリーは最も親密な協力者だった。写真家、脚本家、編集者、共同監督、時には芸術監督として、ゴダールの作品に携わった。「映画はふたりで作るものだ。リュミエール兄弟を見よ」というゴダールの言葉をまさに地で行くような関係だ。その後アンヌ=マリー自身も監督や脚本家としてキャリアを積んでいく。2022年9月13日、ゴダールがレマン湖畔のロールにある自宅で「親しい人たちに囲まれて安らかに亡くなった」と発表したのは、彼女とゴダールのプロデューサーたちだった。ゴダールと親しかったある情報筋はフランスの「リベラシオン」紙に「病気ではありませんでした。疲れきっていただけです。だから本人はすべてを終わらせることにしました。それは本人が決めたことであり、それを公表することに本人はこだわっていました」と語った。

ジーン、ブリジット、シャンタル、その他

ジーン・セバーグとジャン・リュック・ゴダール、『勝手にしやがれ』のプレミアにて。(1960年3月3日) photography: Zuma/ABACA

このほか、ゴダールとつきあうことはなかったものの、ゴダールの作品や映像を人々の無意識に刻み込むのに一役かった大勢の女性たちがいる。ブリジット・バルドーは『軽蔑』(1963年)に出演し、ブロンドヘアにアイラインをひいたキャットアイ、特徴的な喋り方で名セリフの「それでお尻、私のお尻は好きなの?」や「乗って、あなたのアルファに、ロメオ」を吐いた。『勝手にしやがれ』(1960年)でヘラルドトリビューンのTシャツを着てシャンゼリゼ大通りに陣取り、ジャン=ポール・ベルモンドを眺めていたジーン・セバーグ。このアメリカ人女優は撮影を振りかえり、「スポットライトもメイクも音響もない、クレイジーな体験だったわ! でもハリウッドのやり方とはあまりにも違っていて、自然体になれた」と語っている。

『男性・女性』に出演したシャンタル・ゴヤは、フリーマガジン「トロワ・クルール」に当時の思い出を語っている。「私たちはゴダールが望むようには全然せず、自分たちで決めていました! ある時、バスルームのシーンでマルレーヌ・ジョベールと共に裸になってくれと言われました。曇りガラス越しに私たちの動く姿が映るところを撮りたいとのことでした。私は妊娠中だったので裸になりたくなかったし、誰ともキスしたくありませんでした。だから洗面台の下に隠れ、マルレーヌは私のふりをしたんです」とのこと。やがて子ども向きの歌で人気歌手となるシャンタルは、この役の演技でソレント映画祭において受賞、モニカ・ヴィッティから賞を受けとっている。他にも『万事快調』(1972年)の特派員役を演じたジェーン・フォンダ、『彼女について私が知っている二、三の事柄』(1967年)のマリナ・ヴラディ、『勝手に逃げろ/人生』(1979年)や『ゴダールの探偵』(1985年)のナタリー・バイ......らもゴダール作品に永遠にその名を残した。

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