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伊達政宗は気遣いの人?名言から見る戦国大名の意外な一面

  • 2022.9.4
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先人、しかも大成した人の発言や行動というのは人生の参考に大いになります。 今回は、独眼竜として人気の高い戦国大名・伊達政宗の名言から彼の気遣いや心配りを見てみたいと思います。

戦国大名・伊達政宗は文化人

 

まずは、戦国大名としての伊達政宗、そして文化人としても活躍した伊達政宗について見ていきましょう。

戦国大名としての伊達政宗

伊達政宗(だてまさむね)は、戦国時代を生きた戦国大名の一人です。 幼名は梵天丸(ぼんてんまる)といい11歳の時に元服して「伊達藤次郎政宗(だてとうじろうまさむね)」と名乗ります。 諱の「政宗」とは伊達家中興の祖で室町時代の伊達家九代当主「政宗」にあやかり名付けられました。

幼少時に疱瘡(ほうそう)にかかった際に右目を失明。 隻眼となったことから、江戸時代に「独眼竜」という渾名が付けられました。 伊達政宗は戦国武将として活躍し、15歳で初陣をはたした後に23歳で摺上原の戦いに勝利し南奥州を制覇、114万石の領地を持つ大大名となります。

しかしその後、豊臣秀吉に臣従した際に減封を受け、58万石まで縮小してしまいます。 ですが決して彼は腐らず、その後も文禄の役(朝鮮出兵)にも参戦するなどの活躍をしています。

そして徳川方として関ヶ原の戦、戦国時代最後の合戦「大阪夏の陣」にも参戦し活躍し、最終石高は仙台藩62万石となりました。 これは外様大名としては前田家、島津家に続く第三位の規模の領地となります。

文化人としての伊達政宗

戦国大名として活躍する一方、伊達政宗は文化人としても名を挙げていました。 特に和歌の才能に秀でており、後水尾天皇がまとめた和歌集『集外三十六歌仙』にも伊達政宗の歌は収録されています。

この歌の内容は「たとえ門を閉ざさなくても誰が越えようとはしないだろう。夜間も降り積もったことで逢坂の関の門戸を埋めつくした白雪の美しさゆえに」という雪が見せた情景の美しさをあらわしたものです。 この和歌は後水尾天皇が気に入っただけでなく当時の一流の歌人たちもこぞってほめたたえ、戦国大名が作った和歌の中でも最高峰の一つと考えられています。

このように武将としての荒々しさだけでなく、文化人としての一面を持つ伊達政宗の名言には現在でも通じる気遣いにあふれた言葉がいくつもあります。

料理に関する名言から見る伊達政宗の気遣い

 

戦国大名としても、文化人としても活躍を見せた伊達政宗。 彼はどんな名言を残したのでしょうか。

おもてなしの精神を説く名言

strong>馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である

「ごちそうとは旬の食べ物を主催者が自ら調理してさりげなく出しもてなすこと」というのが伊達政宗の饗応、つまり人を招きもてなす場で信念だったようです。 伊達政宗は、饗応というものをを平和になった太平の世の戦場ととらえていた節があります。

江戸幕府三代将軍の「徳川家光(とくがわいえみつ)」を接待した際には献立は伊達政宗本人が全てが考え、味見から配膳も自分で行ったといいます。 このような姿勢で来客に対して正面から向かい合って饗応に挑んでいたことも、江戸幕府の将軍たちに伊達政宗が気に入られていた理由なのかもしれません。

客でも感謝の気持ちを持つべきと説く名言

朝夕の食事うまからずとも、ほめて食うべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。

「毎日が粗食でも、この世には客として招かれた身なのだから文句言ってはいけない。感謝の気持ちが肝要である」という意味だそうです。 伊達政宗の人生観は、この世には客としてきた。あの世が本来いた戻るべきところなのだから死を辛いと思ってはいけないし、あの世が戻るべき場所だと思えば気も楽になるだろうというものだったそうです。

そう思えば粗食も客に対して出してくれたありがたいものと思えるでしょうという招かれた側でも気遣いをするように考えられた名言ですね。 昨今よく騒がれるモンスタークレーマー達に聞かせてあげたいです!

手紙もマメな伊達政宗

 

伊達政宗は非常に筆まめな人物でした。 いろいろな人に、多様な手紙を送っています。

手紙の現存数が多い伊達政宗

伊達政宗は、現存する本人直筆の手紙が1000通以上見つかっているともいわれています。 通常大名は忙しい立場ですし、手紙などは権威付けにも使うことができるので自筆の書は出し惜しみをし、通常は花押(現在のサイン)だけ、場合によってはその花押さえ代筆ということがありました。

ところが、伊達政宗の場合、基本が本人直筆。 どうしても忙しい時は詫びの一言と追伸部分だけ直筆にするという信念を持っていました。

そのため、用事は無いけど最近会ってないからという内容が全く無い重臣宛の手紙も発見されてるのが伊達政宗です。 積極的に自分からコミュニケーションを取り、手紙で自分を表現して相手に心を伝えるという伊達政宗の気遣いを感じ取れますね。

息子にあてた手紙の追伸が至言

この返事、いかやうにも自筆にて給わるべく候。てあがり申さず候とも、節々自筆にて書状かき候ことは、よく候。とかく、かき候はねば、いよいよてあがらぬ物にて候

これは、「この手紙の返事は自分の手でぜひ書いて送りなさい。上手で無くてももいいのです。自筆で手紙を書くことがいいのです。下手だからといって避けて書かないでいるといつまで経っても上手くなりませんよ。」 というような意味が込められた文です。

文章や手紙を自分で書くことを大事に思っている伊達政宗だからこそこの文は書けるのではないでしょうか。 現在では手書きではないどころか、返事をスタンプや一言だけで済ませ自分で考えていない文章を送ることも多いので耳の痛い至言に感じます。

まとめ

破天荒なエピソードが有名な伊達政宗ですが、実は人に気遣うことを心掛けた教養深い人物というのが分かる名言がたくさんありました。 感謝の気持ちを込めて、相手を思って行動しようと思い知らされるひとつひとつの言葉でした。

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