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【戦国武将に学ぶ】榊原康政~姉川の戦い、勝利に導く~

  • 2022.7.11
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愛知県岡崎市にある榊原康政像
愛知県岡崎市にある榊原康政像

榊原康政も徳川家康の重臣で、「徳川四天王」の一人に数えられていますが、酒井忠次の回のときに記したように、同時代史料には「徳川四天王」と書かれたものはありません。その代わり、酒井忠次を除いた本多忠勝、榊原康政、井伊直政の3人を「三傑」といっていたことは確かめられます。

家康の一字、与えられる

康政の生まれは1548(天文17)年で、幼名を亀といい、松平家の菩提寺岡崎(愛知県岡崎市)の大樹寺にいたことが、家康に見いだされるきっかけになります。父の榊原長政は、家康の父松平広忠に仕えていましたので、康政も将来は松平家に仕えるべく、大樹寺で学問修行をしていたと思われます。

その大樹寺に家康が転がりこんできます。1560(永禄3)年5月のことです。桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、今川軍として大高城(名古屋市緑区)にいた家康が岡崎まで逃げてきたとき、岡崎城には今川の家臣がまだいたので、菩提寺の大樹寺に入ったというわけです。そこで康政は家康にお目見えし、小姓に取りたてられました。そして、注目されるのは、元服のとき、家康から“康”の一字を与えられたことです。

この後、家康は今川家から自立し、三河支配に乗り出すわけですが、1563年から翌年にかけて三河一向一揆と戦い、その戦いに康政は本多忠勝と並び大活躍をし、家康から「旗本先手(さきて)役」に抜てきされます。

それからは家康のほとんどの戦いに参陣し、当然のことながら戦功も多いわけですが、中でも、1570(元亀元)年6月28日の近江姉川の戦いで大手柄をたてます。このとき、家康は織田信長の援軍として出陣したのですが、信長が浅井長政軍にあたり、家康は、浅井軍の援軍として出陣してきた朝倉景健(かげたけ)とあたることになりました。

戦いは浅井・朝倉軍が押し気味だったのですが、康政が姉川の下流を迂回(うかい)し、朝倉軍の側面を突きます。いわゆる「横槍(よこやり)」です。これで朝倉軍が崩れ、織田・徳川軍がその後挽回し、最終的に勝ちましたので、姉川の戦いは、康政のおかげで勝ったようなものです。

1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いのとき、康政は羽柴秀吉のことを非難する檄文(げきぶん)を書き、秀吉を怒らせ挑発したことが「榊原家譜」や「常山紀談」などに見えます。

なお、1590年、秀吉による小田原攻め後の論功行賞で、家康が北条氏の遺領関東に移された際、康政は上野国の館林城(群馬県館林市)の城主となり、10万石を与えられています。これは、徳川家臣団の中では、井伊直政の12万石に次ぐ第2位ということになります。

「補佐役の責任の取り方」見本に

1592(文禄元)年、康政は家康の三男秀忠付となります。若い秀忠を補佐するため、家康のもとから秀忠のところに派遣される形となりますが、その秀忠が、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いのとき、いわゆる「関ケ原遅参」という大失態を演じてしまいます。信濃の上田城(長野県上田市)攻めに手間取り、関ケ原の戦いに間に合わなかったのです。

当然のことながら、家康は秀忠の遅参に怒り、戦いの後、しばらくの間、秀忠に会おうとしませんでした。このまま、家康・秀忠父子間にひびが入った状態では徳川家のためによくないと考えた康政は、すべての責任を自らがかぶり、ようやく、家康・秀忠父子の対面、すなわち仲直りを実現させています。

このあたりの康政の責任の取り方は、実に見事でした。だからこそ、後世、補佐役の責任の取り方の見本とされたのではないかと思います。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

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