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戦時下、ディオールの芸術仲間が関わった『真夏の夜の夢』。

  • 2022.6.28
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『真夏の夜の夢』のプログラムをウィンドウに展示している、6区のギャラリー「アレクサンドル・ビアッジ」。彼の家具やオブジェのセレクションはパリの趣味人に愛されている。photos:Mariko Omura

いまから80年前の1942年7月27日、たった一度だけ『真夏の夜の夢』の公演が行われた。第二次世界大戦の最中である。それは占領下のパリと異なりフリーゾーンだった南仏モントルボンにあるリリー・パストレ伯爵夫人が有する敷地内でのこと。彼女はエクス・アン・プロヴァンスで夏に開催される有名な音楽祭の生みの親として名を残すメセナだ。その時の公演や舞台裏を撮影した貴重なオリジナルプリントが、6区で20世紀の家具とオブジェを扱うギャラリー「アレクサンドル・ビアッジ」で展示されている。撮影したのは、室内装飾家になる以前は写真家だったというヴィクトール・グランピエールだ。クリスチャン・ディオールの友人で、ディオールのクチュールメゾンに18世紀のエレガンス漂う内装を手がけたのが彼である。

左: パストレ伯爵夫人の城館の庭にて、『真夏の夜の夢』の出演者たち。中央には後のフランス版ヴォーグの編集長で、『シャネル・アヴァン・シャネル』などの著者も残したエドモンド・シャルル・ルーの姿が。右: 妖精の国の女王タイタニア。©️ Victor Grandpierre

エディット・ピアフやジョゼフィン・ベーカーなどが訪れたことでも知られるパストレ伯爵夫人の南仏の城館。彼女は1940年に“精神が存続するために”という芸術創造のためのアソシエーションをクリエイトし、そんな彼女を訪ねて大勢の音楽家、作家、画家がここにやってきた。アンドレ・ブルトンやマックス・エルンストなどナチスの手を逃れアメリカやポルトガルへと船で渡る多くのユダヤ系文化人をその直前南仏で受け入れていたのも彼女である。実に偉大なメセナなのだ。

その伯爵夫人の援助で催されたソワレのひとつが、この『真夏の夜の夢』である。彼女がコスチュームを依頼したのはクリスチャン・ベラールだった。当時フランス版ヴォーグでイラストレーターとして人気を集めていた彼もクリスチャン・ディオールの若い時からの仲良しで、蚤の市巡りの友だった。伯爵夫人は自分が有するカーテンや布類を彼に提供し、彼はそれをもとに52名の出演者のコスチュームを製作した。演出はジャン・ウォールだが、アーティスティック・コラボレーターとしてボリス・コシュノの名がプログラムに名が残されている。バレエ・リュスで団長ディアギレフの右腕のように活躍した人物で、クリスチャン・ディールが衣装を手がけたローラン・プティの『13のダンス』の台本もこのコシュノによる、というようにこの『真夏の夜の夢』にはクリスチャン・ディオールの複数の友人が関わったのだ。1942年というのはディオールがクチュールメゾンを開く前で、彼が占領下のパリにおいてリュシアン・ルロンのメゾンでナチスの高官の夫人たちのためのドレスを心ならずも作っていた時期である。

左: コスチュームを担当したベベと愛称されるクリスチャン・ベラール。右: ベラールとメセナのリリー・パストレ。©️ Victor Grandpierre

左: プログラムのカバーのためのベラールによるデッサン。右: タイタニアが恋をするロバ役の衣装を準備中のイラ・ベリーヌ。作曲家ストラヴィンスキーの姪である。©️ Victor Grandpierre

戦時下にたった一度とはいえ、こうした演劇の催しが行われたとは意外である。参加者たちは表現活動の機会を与えられ、さぞ興奮したことだろう。有名なヴェルモットのNoilly Pratの創業者ファミリーに生まれた彼女。1940年の離婚後も伯爵の城館を舞台に、メセナ活動に1974年に亡くなるまで奔走したそうだ。その名声と金銭の正しい使い方に乾杯だ! 

ベラール(右から2人目)もボリス・コシュノ(左から2人目)も一緒にポーズ。なおこの写真展『真夏の夜の夢』は、演じられた80年後の7月27日に最終日を迎える。©️ Victor Grandpierre

『Le Songe d’une nuit d’éte』展開催~2022年7月27日Galerie Alexandre Biaggi14, rue de Seine75006 Paris開)10:30~19:00(火~金)14:00~19:00(土、月)休)日

 

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