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【戦国武将に学ぶ】六角承禎~近江に「楽市」信長より早く、先進的国づくり~

  • 2022.4.11
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浮世絵「太平記英勇伝 佐々木六角承禎(部分)」(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)
浮世絵「太平記英勇伝 佐々木六角承禎(部分)」(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

近江(滋賀県)の守護、守護大名から戦国大名となった六角氏ですが、この六角という珍しい名字は京都の「六角」という地名から来ています。本来は近江源氏の佐々木氏で、鎌倉時代、佐々木信綱の子どものとき4家に分かれ、三男泰綱が京都の六角東洞院(ろっかくひがしのとういん)に屋敷を与えられたので六角氏を名乗り、四男氏信がその隣の京極に屋敷を与えられたため、京極氏となりました。

六角氏が佐々木氏の嫡流とされ、愛知川(えちがわ)以南の南近江の守護となり、京極氏は北近江の守護となっています。六角氏はそのまま戦国大名化に成功しましたが、京極氏は家臣の浅井(あざい)氏に取って代わられています。

承禎は六角定頼の子として1521(大永元)年に生まれています。名乗りは義賢(よしかた)ですが、出家して承禎(じょうてい)と号し、承禎となってからの活躍が顕著ですので、ここでは初めから承禎と記します。

将軍保護、管領代にも

承禎の祖父にあたる高頼のときには、9代将軍足利義尚に従わず、その追討を受けていますが、父定頼と承禎の代には、観音寺城(滋賀県近江八幡市)を本拠に、京都を追われた12代将軍足利義晴および13代将軍義輝を保護したことで知られています。一時は、管領代(かんれいだい)という、管領の代理を務めたこともありました。

父定頼が亡くなって承禎が家督を継ぐと、それまでの外交路線をがらっと変えています。定頼のときは、室町幕府の実力者、三好長慶と敵対していたのですが、承禎は長慶と手を結んだのです。

この路線転換の成果はすぐに現れます。北近江の浅井久政との戦いに的を絞り、浅井氏を家臣に組み込むことに成功しました。久政の子が元服するとき、自分の名乗りの一字を与え、賢政と名乗らせていますし、承禎の重臣平井定武の娘と結婚させ、家臣の扱いをしています。

しかし、この浅井賢政は六角氏従属路線を嫌いました。父久政を隠居させ、承禎と手を切って長政と名を改め、ここに、六角・浅井の熾烈(しれつ)な戦いが始まるのです。

浅井長政に敗れ、最後は信長に屈す

ところで、近江は、近江商人を輩出したことでも明らかなように、商品流通経済のわが国での先進地でした。承禎もそこに目をつけ、商品流通重視の国づくりに成功しています。その一つが楽市政策です。楽市というと、織田信長が1567(永禄10)年に岐阜城下を楽市としたことが有名ですが、何と、承禎はそれより18年も前の1549(天文18)年に観音寺城の城下町石寺新市を楽市としていたのです。楽市政策をとった第1号が承禎だったことはもっと知られていいのではないかと思います。

ただ、その後、承禎は、1560(永禄3)年8月、浅井長政と野良田(のらだ)表(滋賀県彦根市)で戦って敗れてから陰りが見られ、さらにその3年後、1563年、承禎の子義治が重臣後藤賢豊父子を殺害したことから「観音寺騒動」と呼ばれる争乱に発展し、六角氏の力は弱体化していきます。

そのような折、承禎は分国法(戦国家法)として「六角氏式目」を制定しているのですが、その最後の所に注目すべき点があります。家臣たちが「この式目を順守(じゅんしゅ)します」と誓っているだけでなく、承禎・義治父子もこの法を守ることを誓っているのです。見方を変えると、家臣たちが作成した法を、主君が守るよう迫られたと見ることもできます。

このような状況のところに、1568(永禄11)年9月、足利義昭を擁した織田信長が攻め込んできます。承禎・義治父子は近江甲賀郡に逃げていき、戦国大名六角氏は滅亡してしまいました。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

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