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【戦国武将に学ぶ】北条氏康~信玄、義元と「三国同盟」、小田原で謙信を撃退~

  • 2022.3.13
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北条氏康像(部分、堀内天嶺写、小田原城天守閣所蔵)
北条氏康像(部分、堀内天嶺写、小田原城天守閣所蔵)

戦国大名北条氏の3代目が氏康です。初代早雲が伊豆・相模2カ国を支配し、2代目の氏綱が武蔵にまで版図を広げ、その子氏康のとき、さらに領国を広げています

関東「旧勢力」打ち破る

軍事的に大きな意味を持ったのが、1546(天文15)年の河越(かわごえ)の戦いです。勝敗が決したのが夜だったことから、「河越夜戦(やせん)」の名でも知られています。それまで、関東で大きな勢力を持っていた、古河(こが)公方と、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏、それに山内(やまのうち)上杉氏という両上杉の大軍を破っているのです。そのため、この戦いは、関東の旧勢力に代わって、新勢力が台頭する、まさに分水嶺(れい)といってよい戦いでした。

そして、もう一つ注目されるのが、氏康の外交政策です。氏康の正室は、駿河の今川氏親の娘だったのですが、氏親の子義元の代になると、北条と今川は対立し、戦いも起きました。しかし氏康は、義元と戦うのは得策でないと考え、武田信玄の仲介もあって、手を結ぶことになります。これが戦国時代には珍しい三国同盟の「甲相駿三国同盟」です。甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元の同盟で、これによって氏康は、背後を心配することなく、東へ、北へ軍事行動を起こし、下総、下野、上野と版図を広げることに成功しています。

1561(永禄4)年には、上杉謙信に居城小田原城(神奈川県小田原市)を攻められますが、小田原城に籠城して上杉軍を撃退しています。

家臣の声に広く耳傾ける

氏康は、長男が早世したため、家督を次男氏政に継がせますが、特筆されるのは、三男以下を領内の支城の城主にして、支城領を任せている点です。三男氏照が武蔵滝山城主(のち八王子城主、ともに東京都八王子市)、四男氏邦が武蔵鉢形城主(埼玉県寄居町)、五男氏規が伊豆韮山城主(静岡県伊豆の国市)となり、兄弟の和によって、北条領国はさらに拡大していったのです。

氏康は、このように、軍事・外交において力を発揮しただけでなく、内政面においても見るべき成果を上げていました。その一つが税制改革です。それまでの北条氏の税制は、諸点役(しょてんやく)と呼ばれる前時代からの系譜を引く、種々雑多なものがありましたが、氏康は1550(天文19)年、その仕組みを変えたのです。

具体的に見ますと、貫高、すなわち収穫高の6%の段銭(たんせん)と、4%の懸銭(かけせん)という税に整理統合し、すっきりした形にしました。6%+4%=10%で、貫高のちょうど1割となり、計算が簡単になりました。農民たちは、年貢のほかに、この10%の段銭・懸銭と、棟別銭(むねべちせん)と呼ばれる家屋税を払えばよくなったのです。

なお、氏康の前向きな生き方を示すエピソードが「北条五代記」に見えますので紹介しておきます。氏康が家臣たちの声を積極的に取り入れようとしていたという点です。氏康が家臣たちに、「軍陣において、諸侍いくさの行(てだて)を見付け、思いよる兵術是(これ)あるに至(いたり)ては、貴賤(きせん)上下をえらばず、推参(すいさん)をはゞからず、急ぎはせ参じ、直(じき)に申上(もうしあぐ)べし」と言ったというのです。

これは「身分が低い家臣でも、いい作戦を考えた者は申し出るように」という意味です。一般的に、戦略・戦術は、ひと握りの重臣たち、特に軍師などといわれるような部将と当主だけで決めることが多いので、氏康の発言は興味深いものがあります。

また、氏康は、当時の高等教育機関「足利学校」を保護したことでも知られ、校長にあたる庠主(しょうしゅ)の九華瑞●(●は「王偏に與」、きゅうか・ずいよ)に師事し、兵法書として知られる「三略」の講義も受けています。学問を大切にし、学ぶ姿勢も持っていたのです。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

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