女の怒りとピザカッター【彼氏の顔が覚えられません 第43話】

女性は、怒りたいことがあるから怒るのではなく、怒りたいときがあるから怒るのだ。そういう話を聞いたことがある。誰から聞いたかは重要じゃない。ただ私の中ではそれが、真理として刻まれている。

女の怒りとピザカッター【彼氏の顔が覚えられません 第43話】

画像:(c)Andrey Armyagov - Fotolia.com

どんな理不尽なことをされても、女性には耐える力がある。自分の感覚を無にし、怒りたい事象が過ぎ去るのを待つことができる。

ただ、あるとき、それまで耐えていたものが爆発する。それこそ理不尽な話かもしれない。理不尽な仕打ちを受けたならその分だけ、理不尽に怒りを吐き出してしまう。ときには、「生理」も言い訳にする。

スポットライトが赤に、青に、緑に、黄に。さまざまな色でステージ上の男性を照らす。それがカズヤなのか。相変わらず顔は覚えてないし、こう光が安定しないライヴ会場だと、そもそも顔なんか判別できなくて当然だろう。

ただ、「イズミ! 聴いてくれ! 俺がこの日のために用意したラブソングを!」そう叫んだのがカズヤの声だったのは間違いない。

逃げようとしたのに。まるで観客全員がグルみたいにどんどんステージの直前まで押し出されて。ツバが飛ぶくらいの近い距離で歌っているのは、「怒りたい事象」だ。私のことを放ったらかしして、"ギター友達"のマナミなんかとずっと一緒に過ごして。

マナミに浮気したかどうかはわからない。その事実があってもなくても、これは怒っていい状況だ。私へのラブソングだなんて。ギターをかきならし、長い髪――ほんと気持ち悪いから切ってほしい――を振り回し、「歌う」と言うより「がなる」みたいなひどい声をマイクにのせて。

そんな必死な様子を見せつけられても、うれしくない。周りの観客は、意外にもどんどん惹きつけられるようにステージへ迫ってきて、飛び跳ねたり踊ったりしてるけど、私はすごくドン引きしちゃってる。

そんなことで私の心は取り戻せないんだから。またあのときみたいに、顔に水ぶっかけてやったときみたいに、今度は歌ってるあなたの鼻にグーパンチお見舞いしてやるんだから。

ただ、今はこの状況に耐えるとき。怒りたいときじゃない、できるかぎり不満そうな顔をして、ただ事象が過ぎ去るのを待っているだけなんだから。不満そうな顔の作り方なんて、わからないけれど。

曲が止み、スポットライトが白で止まる。照らされながら、がなり続けていたステージの男性は上を向いている。顔中から汗が噴き出している。シャツもびしょびしょだ。手は体の横に広げ、フォークギターは、肩からかけたストラップで宙ぶらりんの状態になっている。

子豚ちゃん――マナミの姿はない。男性がかぶっていたウサギの被り物も。いつの間にかステージ袖にはけてしまったようだ。空気を読んでのことだろうか。読まなくったっていいのに。

目の前の、ロン毛で、汗だくで、せっかくのテナーボイスさえがなり声で潰しちゃった男性――必死すぎてバランス崩壊しちゃった彼が、一度正面を向き、そして私を見下ろす。

しっかり目を合わせる。彼がカズヤだってわかってる。こんなどうしようもない男は、カズヤしかいない。彼が口を開く。

「イズミ、俺…」

そして、間を空ける。何を言おうとしているのか、またどんなバカな言葉が飛び出すのか。言わないで。いや、早く言って。ためらわれるのが一番困る。

「俺、おまえともう一度…」

早く。そこで止めないで。ちゃんと言って。

「く、くぉっ…恋がしたいんだ!」

バカ。

そこで盛大に噛むな。

ステージ上から、私に差し出される手。握り返せ、と言いたいんだろう。だけどそれを私は払いのける。

「ムリっ!!」

そう叫んで後ろを振り向き、周囲の客のを見渡す。瞬間、ピザカッターで切り分けたみたいに群れが左右に割れ、花道ができあがる。まっすぐ突き抜け、出口へ向かう。

「…先輩! ヤマナシ先輩、待って!」

コモリの声。待たない。会場の重い扉を力いっぱい開け、出てからまた思いっきり閉じる。外に飛び出す。走る。一心不乱に走る。

カズヤのことを忘れられるように。顔は最初から覚えてなかったけど、その声すら忘れられるように。においも、仕草も、ぜんぶ。存在自体を無かったことにできるように。

(つづく)

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(平原 学)

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