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“あの二人”に学ぶ「ぞっこん」にさせる人、「ぞっこん」になれる人は何が違うのか?

  • 2022.1.12
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ラブラブとはまったく違う、お互い「ぞっこん」のカップルとは

「ぞっこん」という言葉がある。心の底から相手に惚れ込むこと。語源は「底根=そここん」、あくまで心根の奥底から、相手に心酔するという意味である。ちなみに「ぞっこん」系の恋愛は、ラブラブとは根本的に違う。そこには相手をリスペクトしているという強い意志が感じられるからだ。

今どきは芸能人同士でも二人そろって結婚会見をするケースはほとんどなく、文書での型通りの結婚報告だけで済ませるのが普通。だからそれぞれの心の内はなかなか見えてこない。菅田将暉と小松菜奈の場合も例外ではなかったが、なぜだかこの二人からは、お互い「ぞっこん」であることがまざまざと伝わってきた。

交際報道はすでにあったから、結婚発表における衝撃度は大きくはなかったが、その代わり何か「特別な羨ましさ」を覚えたはず。結婚に対してではなくその関係に対して。それもお互いへのリスペクトがそこはかとなく伝わってきたからだろう。比較の問題ではないが、微笑ましくもあり納得度も極めて高かった“星野源×新垣結衣”の時よりもっと、結婚っていいなと思ったはず。納得以上に心が動いたはず。このじんわりした喜びと憧れはどこから来るのだろうか?

共演の多い二人は、映画にまつわる会見の中でお互いを評価しており、もうそこに半端ではない熱量が伝わってきたが、ある会見で小松菜奈が菅田将暉の人間性の素晴らしさについて語っていて涙ぐんだ時、菅田が全身全霊で小松を想うさまがうかがえた。漏れ聞こえてくる報道でも、とりわけ菅田のほうが小松に「ぞっこん」だったとされる。「この人を逃してはいけない」「彼女から目を離したくない」というほど切迫した思いがあったのだと。

私たちが清々しい憧れを感じたのは、この菅田将暉の“確信”なのだ。結婚は手続き上は決定的なものなのに、組み合わせの是非はどうにも曖昧。成り行きでそうなったカップルが多く、正直やってみなければわからない不確定さがある。でも彼の判断には揺るぎない確信が見えたのだ。それこそ縁もゆかりもない私たちにもそれが伝わるほど。 言ってみれば、探していた鍵が鍵穴にぴったり合った時の驚きと歓喜をそこに感じたからこそ、私たちまでが胸のすくような思いに至ったのだろう。まさに「底根」の域。「好き」とも、「愛している」とも意味が違う、惚れ込むという感情。また心底というレベル。そこに至るには何が必要なのか、「ぞっこん」という情動の成り立ちを改めて考えてみた。

「こんな人がいたんだ」という驚き、だから「この人を逃してはいけない」

VOCE2022年2月号 齋藤薫

異性として、またパートナーとして心底惚れ込むのには、まず顔が好き、タイプが好き、これも当然クリアされるべきだが、それを上回る人間性へのリスペクトがなければならない。ビジュアルも、生き方も、精神性も、三拍子そろわないと、そこまでの強烈なこだわりは生まれないが、総合して「ぞっこん」とは「こんな人がいたんだ」とそれにビックリするくらい、存在自体に、また出会えたこと自体への感動に近い感情なのだ。そういう意味では、簡単なように見えてほとんど奇跡的。なぜなら多くの恋愛は、時間を経ても熟成させても、なかなかそこまでの次元には到達しない。「心から愛している」とも違う感情なのだ。

そもそも男と女は、出会った時点で何かを妥協している。いや妥協していることをも自分に気づかせないくらい、イヤな予感には一瞬気づいても本能的に目をつぶってしまう。結果として、最初の混じりものを見て見ぬふりをするから、時を経るほどに大きな濁りとなってくることが少なくないのだが、それでも相手を心から愛することは可能。妥協したまま一生を終えることも充分可能なのである。

でも心底惚れ込むとは、そういうレベルではなく、まさに理想の理想と言える人との奇跡的な出会いを果たした人だけが足を踏み入れる領域、いや理想という言葉も適切ではないかもしれない。その人が本質の中に持っている永遠の正解、そこに当てはまる稀有な人間に会った時にだけ生まれるオタク的思慕、だから永遠に続く。それが「ぞっこん」なのだ。

ちなみに、その仕組みが面白く描かれたのが、キャメロン・ディアス主演『メリーに首ったけ』。キュートで快活なメリーの職業は医者。その言動を追ううちに、人間性の素晴らしさにどんどんハマっていく男たちの姿が描かれている。これぞ「ぞっこん」にさせる女の典型、要チェック。

ただ、それだけではない。そう簡単にはこの関係性が生まれないのも、“心底惚れ込む”のには、惚れ込む側にも実は高い知性が必要だからである。一方的に感情をエスカレートさせての執着や危険性を防ぐためにも、人間の品性と知性が同時に問われる感情と言っていい。「この人を逃してはいけない」にはあくまで客観性と理性が必要なのだ。

そもそもが、相手の人間性にとことん惚れ込むというベクトル自体、そんじょそこらの人間にできることではない。世の中の仕組みを知っていて、人間というものがよく見えていて、だから何が善くて何が悪いかわかっている、そういう正しい眼と判断力を持っている証。逆に言えば、本人に人としての格別な能力がなければ、そこまで一人の人間を評価することすらできない。他者を評価できるのは、レッキとした才能なのだ。

とすればこの結婚、素晴らしくレベルの高い組み合わせということになる。選ぶ人も選ばれる人も、惚れ込む人も惚れ込まれる人も、魂レベルの高いもの同士でないと生まれない関係なのだから。

従って歴史に名を残す芸術家や文化人には「ぞっこん系の関係」が多く見られ、シュルレアリスムの旗手サルバドール・ダリは、詩人の妻ガラ・エリュアールに心底惚れ込んで略奪婚しているし、大作曲家ワーグナーも、リストの娘であるコジマと運命的な出会いをし、お互い家庭がありながら「ぞっこん惚れ」で結ばれている。今の時代なら完全にNGだが、天才たちにはこうした運命の出会いがつきもの。人並み外れた知性と感性の証として、どうにもならないほど相手に惚れ込んでしまうのは、彼らにとって逃れられない宿命なのだ。並み外れた才能の持ち主には本質の中の正解が見えているから、出会ってしまうともう理屈抜き。何を犠牲にしても結ばれなければいけないという選択には、人間の素晴らしさとおぞましさが両方見え隠れするけれど。

どちらにせよ、普通はいろいろ経験を積んだ末に到達する領域、それを20代という若さで果たしてしまうこの二人の早熟ぶり、精神年齢の高さには驚くが、だから誰も不幸にせずに達成できた。何かこういう結婚が若いうちにできてしまう二人は、人よりはるかに早く濃厚な人生を始め、お互いどこまでもその精神性を高めていくのだろう。いやこれも想像の域を出ないから、逆に激しく衝突して……ともなりかねないが。

今まで、恋愛の質について深く考えることはなかった。するかしないか、出会うか出会わないか、そして結婚するかしないか、それ止まりで。でも今、一から考えてほしいのは恋愛のクオリティー。もちろん一般的には20代、30代で簡単に行き着ける境地ではないが、誰もが経験を積むうち、多くの人と関わるうちに、人間性に心底惹かれる精神性が備わっていく。逆に、心底惚れ込まれる、「ぞっこん」にさせる人にもなっていける。

一度きりの人生、いつかはそういう質の高い出会いを果たしたい。若いうちは誰とも関係を深められなかった人ほど、キャリアを重ねて「ぞっこん」系の出会いに行き着く可能性は高い。もうこの際、40代、50代、60代、極端な話、死ぬまでに一度でもそういう情愛に身を投じることができたら本望と考えたっていい。既成概念をすべて捨て、自分の中の恋愛観を塗り替えてもいいのかもしれない。

本質の中の永遠の正解を踏まえ、改めて周囲を見渡してみて。「ぞっこん」になれる人はいないだろうか。誰かを「ぞっこん」にさせていないだろうか。

誰かに心底惚れ込むこと自体、そんじょそこらの人間にできることではない。世の中の仕組みも、物事の是非もよく見えていないと、そこまで一人の人を評価することなどできない。「ぞっこん」になれるのはレッキとした才能なのだ。

撮影/戸田嘉昭 スタイリング/細田宏美 構成/寺田奈巳

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