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悲しみを受け止められなかった父はヴィランに。『シャン・チー』で描かれる家父長制への問いかけ。

  • 2021.10.14
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『シャン・チー/テン・リングスの伝説』は、マーベル・スタジオが制作するMCUの作品の中で初のアジア系ヒーローが主人公の物語だということでも話題となっている。

主人公のシャン・チーを演じるシム・リウは中国生まれカナダ育ちで、主にカナダのテレビシリーズで活躍し、今回の大抜擢となった。

シャン・チー
©️Marvel Studios 2021

トニー・レオン演じる、父親の悲しみ

テン・リングスという1000年にわたって歴史の裏で暗躍してきた組織のリーダーでもあり、その組織名の元になる10個の腕輪からなる武器(テン・リングス)を司るシャン・チーの父親、シュー・ウェンウーをトニー・レオンが演じている。トニー・レオンといえば、日本でも大ヒットした『インファナル・アフェア』の潜入捜査官が有名だろう。ウォン・カーウァイの『花様年華』ではカンヌ国際映画祭で男優賞を受賞するなど、香港を代表する俳優である。

ジョン・ウーの『レッドクリフ』など、アクション映画やエンターテインメント大作にも出演しているが、どんな作品に出演していても、孤独の影や悲しみがその瞳から漂うような俳優で、本作『シャン・チー』でも、そんなトニー・レオンの悲しみが映画に良い作用をもたらしている。ウェンウーは1000年も暗躍してきたヴィラン(悪役/悪党)であるから、年齢も1000歳を超えているが、見た目としては、実際のトニー・レオンと同様、50代くらいの役とみていいだろう。

シャン・チー
©️Marvel Studios 2021

ヒット作『ドライブ・マイ・カー』との共通点

そんな中年にさしかかったウェンウーの姿が、なぜか前回、VOCEのコラム(映画『ドライブ・マイ・カー』で描かれる、「正しく傷つく」までの物語)で書いた『ドライブ・マイ・カー』で西島秀俊の演じた主人公の家福と重なった。なんでも見たものを重ねてしまうのはよくないが、こじつけとも言い切れないのである。『ドライブ・マイ・カー』の家福は、妻を失い、「正しく傷つく」までが描かれているのだが、『シャン・チー』のウェンウーも最愛の妻を失い、その傷を負ったことで悲劇が始まるのである。

ウェンウーが率いるテン・リングスは、マーベルの『アイアンマン』などにもエピソードが出てくる悪の組織。ウェンウーも、各地でさまざまな戦いをしてきた冷酷な男であったが、妻のイン・リーに出会い、シャン・チーとシャーリンという一男一女を儲けてからは、平穏な暮らしを営もうとしていた。しかし、彼自身の過去の因縁によって、妻が犠牲となると、その悲しみを怒りに変え、またもとの非道な姿に戻ってしまっていた。そのため、息子のシャン・チーにも武力を身に付けさせようと、厳しい訓練を強いるのだった。それもこれも、妻の無念を晴らす復讐のために。

「力」は男性だけが持つものではない

つまり、ウェンウーは、「正しく傷つく」ことができなかった人なのである。

家福は、自らが『ワーニャ伯父さん』の舞台演出をする中で様々な人と出会い、また毎日、そのセリフを反復したり、周囲の人々との呼吸を合わせたりする中で、自分の心に耳を傾けられるようになり、その末にやっと「正しく傷つく」ということにたどり着いた。その一方で、勘が良く、物事を瞬時に受け止めることはできるが、その分、直情的で何をしでかすかわからない高槻という俳優は、家福とは対照的な人物として描かれていた。

シャン・チー
©️Marvel Studios 2021

実は『シャン・チー』でも、この「反復」したり、「呼吸」を合わせたり、その結果、自分の「心」にたどり着くという描写が確かに存在するのである。それは、ウェンウーが体験するのではなく、息子で主人公のシャン・チーがたどり着くものとして描かれる。シャン・チーは、一度は父の「暗殺者」になれという教えに従って武術の習得にいそしむが、結局、父=ヴィランの意思には添えなったからこそ、ヴィランの継承者にはならず、ヒーローになった人物である。

しかし、考えてみると、なぜ父が誤った方向で身に付けさせた武術が、彼自身を救ったのだろうか。そこには、シャン・チーが、母のイン・リーとの別れを受け止め、身に付けた「力」を「正しく」使おうとしたということがあるだろう。反対に父のウェンウーは、妻のイン・リーとの別れを正しく受け止められなかったからこそ、事実を曲解し、敵を彼自身の中に作り上げてしまった。

「力」というのは、この物語の中では、なにもウェンウーやシャン・チーなど、男性だけが持つものではない。

ウェンウーの妻であり、シャン・チーの母親であるイン・リーもまた、ウェンウーをしのぐほどの武術の使い手であったし、またウェンウーとイン・リーの娘であるシャーリンもまた、独学で武力を学んで力を身に付けていた。彼女はシャン・チーと戦っても互角であった。

シャン・チー
©️Marvel Studios 2021

この「力」というのは、映画の中では武力と示されていたが、何もそれだけをさすのではない。ウェンウーが、娘のシャーリンにだけは、武術の訓練をさせなかったことを考えると、息子には勉強をさせてより高い進学をさせるが、娘に能力があっても、「女の子はほどほどでよい」とより高い進学をするのをあきらめさせたり、また医学部の受験で女子の点数のみを一律で減点するような現代社会ともつながって見える。つまり、この「力」は、学力や生きる力の比喩でもあるのだ。

ウェンウーが、シャン・チーには自分の意思を継がせようとしていたのに、シャーリンにはその意思を継がせないばかりか、学ぶ機会を与えなかったという描写を見ても、『シャン・チー』には、家父長制度や、男女差別に対して考えさせるテーマを持っていることがわかる。

シャン・チーは、父の意志を断ち切ることでヒーローになる。シャーリンも父に反発する。すなわちそれは家父長制を断つということを意味していると考えられるだろう。

一方で、シャン・チーらが訪れる母の故郷では、老若男女、どんな人も自分を守るための力を身に付けることが推奨されているという意味で、ウェンウーの示唆する家父長制にのっとった世界とは対照的である。また、シャン・チーの友人であるケイティも、ヒーローのシャン・チーに単に助けられる存在ではなく、彼女も「力」(運転などの技能など)を身に付けた個人であり、シャン・チーとも心身ともにお互いに相手を助け合うバディなのである。

シャン・チー
©️Marvel Studios 2021

男性は自分を大きく、強く見せなくてもいい

家父長制の象徴でもあり、力を利己的に扱う存在であったウェンウーは、単純に言えばトキシック・マスキュリニティ=有害な男らしさを表していたのだとも思える。

しかし、この映画を見ていて、有害なのは「男らしさ」ではなく、何かつらいことや受け止めきれないことを体験したときに、その感情を見つめず、負の感情を暴力に変え、その原因となったものたちに戦いを挑み、打ち負かすことで鎮めようとすることではないかと思った。

『ドライブ・マイ・カー』でも『シャン・チー』でも描かれていた、反復をし、呼吸を感じ、心を見つめるということは、実は暴力に向かう気持ちを落ち着かせることだったのではないか。『シャン・チー』を見ると、そのことがより実感させられたのである。

しかし、家父長制の中では、父としての「責任感」は、有害な方向に向かいやすい。ウェンウーも、強い力を持った父であらねばならぬという責任感に支配され、借り物の10個の腕輪(テン・リングス)を身に着けることで、自分を大きく強く見せようとして無理をしていたのではないか。トニー・レオンの、どんな作品でも憂いや孤独を感じさせるたたずまいが、その悲しさや、苦しみを感じさせていた。

テン・リングスを身に着けず、ごくごくありきたりな家族の中のごくごくありきたりな父親であったときのウェンウーは、自分を大きく見せる必要はなかった。また、息子と戦った後のウェンウーは、ほかのだれかと変わらない、とても小さきささやかな存在であった。でも、それでいいのではないか、それこそが元来の姿なのではないかと、最後までこの映画を見て思えたのであった。

『シャン・チー/テン・リングスの伝説』

『アベンジャーズ』シリーズを手掛けるマーベル・スタジオによるヒーローアクション。犯罪組織を率いる父親シュー・ウェンウー(トニー・レオン)に鍛え上げられ、最強の力を持つシャン・チー(シム・リウ)。組織の後継者とみなされていたが、彼はサンフランシスコでホテルマンとして平凡に暮らそうとする。だが、伝説の腕輪”テン・リングス”を操る父親が世界を恐怖に陥れようとしたため……。

文/西森路代

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