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シティガール未満 vol.19──国立

  • 2021.8.30
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上京して8年目、 高層ビルも満員電車もいつしか当たり前になった。 日々変わりゆく東京の街で感じたことを書き綴るエッセイ。
前回記事:『Vol.18──東銀座』

中央線国立駅近くの老舗喫茶「白十字」のスペシャルショートケーキ、440円。ベースは一般的なショートケーキだが、上に乗っているイチゴごと包み込むように流し込まれたイチゴのゼリーの層が、スペシャルたる所以なのだろう。
ベールのように薄くイチゴを覆うゼリーが照明を反射してキラキラと輝く様は、子供の頃に夢見た、宝石みたいなお菓子そのものだ。小さなフォークで鋭角を崩して口に運ぶと、爽やかな甘さが吹き抜ける。

それなのに私は、どこか罪の味を感じていた。拭い切れない罪悪感があった。
ダイエットをしているからではない。こんなことにお金を使っていいのだろうか、という不安がつきまとうせいで、舌は確かに美味しいと伝えているはずなのに、頭がそれを素直に受け取ってくれないのだ。

Twitterでフォローしている国立在住の人がよく食べているスペシャルショートケーキ。タイムラインに流れてくるイチゴのゼリーの輝きを見る度に、国立に行ったら絶対に食べようと思っていたのだが、せめてスペシャルよりも100円安い普通の「ショートケーキ」の方が、私の身の丈には合っていたのかもしれない。

でも、440円という数字だけを冷静に考えてみると、別に大した出費ではない。
歯列矯正の器具を失くして再作成にかかった4万円とか、自分は一滴もお酒を飲んでいないのに割り勘にされた上につまらなかった飲み会代4000円とかの方が、遥かに無駄な出費のはずだ。440円はケーキの相場としてもお手頃価格だし、ましてここでたった100円を節約したところで大して変わらないだろう。
そうした数百円の積み重ねが「塵も積もれば山となる」のも確かだが、こうして時々美味しいケーキやパフェを食べることは、私にとって精神衛生上の必要経費だと考えている。
本当は「こんなこと」ではない。決して無駄遣いではない。罪悪感を抱くようなことではない。そういつも自分に言い聞かせ、800円くらいのパフェを食べてもなんとかお金の心配や将来の不安を意識の外に追いやることができている。単に金額だけの問題ではなく、典型的な日本人として、ショートケーキは誕生日かクリスマスくらいにしか食べられない特別なもの、という固定観念が染み付いているせいでもあるのだろう。

子供の頃は、25歳にもなればお金の心配をせず食べたい時に食べたいものを食べられると思っていた。憧れのブランドの服を年に数着くらいは買えると思っていた。もっと広い部屋に住めると思っていた。

私は全然、思い描いていた大人になれていない。それは奇しくも今日国立に来たきっかけと重なっていた。
1989年、当時人気絶頂だったTHE BLUE HEARTSのギタリスト・真島昌利がリリースしたソロアルバム『夏のぬけがら』を、私は毎年蝉が鳴き出すと聴き始める。歌詞には真島昌利の地元である武蔵野の地名が多く出てくるのだが、中でも特に好きな「さよならビリー・ザ・キッド」という曲の舞台が国立なのだ。

30年以上が経ち国立駅周辺は再開発が進んでいるものの、詞からイメージしていた情景と重なる雰囲気は確かに残っていて嬉しくなった。

ここで歌詞を引用したいところだが、権利の都合上できないらしいので手短に説明すると、家庭を持つ平凡な27歳の青年の悲哀を、その幼馴染と思しき「僕」目線で描いた曲である。惰性でやり過ごす単調な毎日。夢も希望もない人生。「君」は伏し目がちに愚痴をこぼし、他人を羨む。そんな抜け殻のように変わり果てた「君」を目の当たりにした「僕」が、反抗的だった2人の少年時代の思い出に浸り、国立のバス停近くの木の下で別れるまでが描かれている。
「君」の生活について詳しく書かれているわけではないが、かつては尖っていた自分も今や普通に働いて妻子を持つ、「つまらない大人になってしまった」的な嘆きなのだろう。
とても好きな詞ではあるが、私が共感するような曲ではないと思っていた。時代背景も違えば置かれている状況も全く違うからだ。しかし、思い描いていた大人像は違えど、こんなはずじゃなかった、という不満を抱いている点では、「君」と私は同じなのかもしれない。

そもそも子供の頃は、大人はいちいち悩んだりしない生き物だとすら思っていた。どんな大人も、毎日テキパキ仕事や育児をこなし、些細なことには振り回されず、情緒が落ち着いていて、自らの人生や生活に大きな不満もなく生きているように見え、当然自分もそうなれるのだと思い込んでいた。
しかし子供の頃に接していた大人といえば親や親戚、先生、友達の親くらいで、彼らは子供の前では「親」「先生」といった役割を演じていただけなのだろう、と気付いたのは割と最近のことだ。誰しも役割の前にひとりの人間であり、見えている部分がその人のすべてではない。子供には弱い部分を見せないようにしてくれていただけなのだ。もちろん世の中にはもっといろんな人がいて、そういう大人ばかりではないことも、今は知っている。大人になったらあらゆる苦悩から解放されて楽しく生きられる、と思わせてくれる大人に囲まれて育った私は恵まれていたのかもしれない。そのおかげで、未来に希望を持てたのだから。

もしも今の私が、とにかく学校に行きたくなかった小学生の頃の自分に会って、「今もつらいだろうけど、何歳になっても別のつらさがあるよ」と伝えたら、小学生の私は絶望しただろう。でも今の私は、なんとかそれを受け入れる力を持っている。学校に行きたくない、というのも幼いなりに切実な叫びだったし、そこから解放された大学時代もまた別の困難があり、今はこの通り経済状況が主な悩みだが、もし気軽にショートケーキを食べられるようになったとしても、きっとまた新たな不満や葛藤が生まれ、思い描いていた大人には程遠いと嘆くに違いない。

人生ってそんなもんなんだろうな、と心の中で呟くと、私は少し救われた気持ちになる。それは単に諦めきっているのではなく、そんなものだと受け入れた上で、最善を尽くしていくしかないのだと思う。
窓の外を、色とりどりのランドセルを背負ってはしゃぐ下校中の小学生たちが過ぎていく。お皿の上で崩れかけたスペシャルショートケーキから、とっておいた最後のイチゴを掬う。子供の頃に思い描いていた大人像なんて、幻想だったのだ。

店を出て大学通りを歩く。数多の映像作品のロケ地に使用されるのも納得の平和な風景だ。爽やかな風が吹き抜け、夏の青々とした木々を揺らす。
歩道の端の木の下で、絵を描いている年配の男性がいた。斜め後ろから覗き見ると、見事な水彩の国立の風景が白いキャンバスに浮かび上がっている。
私は彼の背中を見た。その背中に途方もない人生を思った。あと何十年も続くと思うと気が遠くなるが、私もできれば書くことだけはやめたくないなと思った。

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