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#MeToo時代、ジェントルマンが持つの意味とは?

  • 2021.8.22

Netflixドラマ「ブリジャートン家」やジェーン・オースティンの小説が人気を博すなか、ジェントルマンが脚光を浴びている。ところでジェントルマンとはいったい何なのか?21世紀に紳士的に振る舞うとはどういうことか?19世紀のイギリスの小説家、ウィリアム・M・サッカレーによる紳士の手引き『若きロンドン市民への手紙』を翻訳したショーン・ローズにインタビュー。

MeToo運動やSNSの時代、『キングスマン』のコリン・ファースのように紳士であることは時代錯誤なの? photo : TWENTIETH CENTURY FOX / Album /アフロ

「彼は完璧な紳士として振る舞った」。この言葉は、SNSやMeToo運動の時代、21世紀にどんな意味を持っているのだろうか?その答えは、このほどフランスで翻訳版が刊行された『若きロンドン市民への手紙』(1)を読めばわかるかもしれない。1847年から48年にかけて発表されたこの(架空の)書簡では、ブラウンと名乗る男性がロンドンに住む見習い弁護士の甥にさまざまなアドバイスを送っている。社交界でのジェントルマンとしての振る舞い方に始まり、晩餐会での服装マナー、おすすめの仕立て屋から、友情、舞踏会についてまで、内容は多岐にわたる。

著者は、ウィリアム・メイクピース・サッカレー。チャールズ・ディケンズの最大のライバルで、代表作に『虚栄の市』や、スタンリー・キューブリックが映画化したことでも有名な『バリー・リンドン』がある。『手紙』の翻訳を手がけたジャーナリストで作家のショーン・ローズは、本書に「振る舞いについて」と題したエッセイを寄せ、ジェントルマンという概念について分析している。訳者によれば、ジェントルマンとはダンディの対極にあるものだという。

『最高の友』(2)の著者でもあるローズは、エッセイの中で、ジェントルマンという言葉の起源にさかのぼり、礼儀正しさや人当たりのよさなど、私たちが思い浮かべるイメージの裏にあるその政治的次元を掘り起こしている。サッカレーの著作を一読して分かるのは、ジェントルマンに「マン」という語が含まれているように、「ジェントルマンとは“男”としてのひとつのあり方を示すものだ」ということ。ジェントルマンにとって、男らしさは何よりも道義的問題であり、女性を支配する、あるいは女性を圧倒するといったことは、ジェントルマンのカリキュラムには含まれていない。紳士的な作家にインタビューを行った。

ーーウィリアム・メイクピース・サッカレーは、ジェントルマンをどのように定義しているのでしょうか?

19世紀のブルジョワであるブラウン氏という登場人物とともに、サッカレーは新しいパラダイムを作り上げました。フランス語にはgentilhommeという言葉がありますが、それとはかなり趣が異なります。gentilhommeは“名門の生まれ”、つまり貴族を意味する“genitus”が語源です。

『Le Bourgeois gentilhomme(町人貴族)』を書いたとき、モリエールは戯曲の題名に撞着語法(編集部注:互いに矛盾する言葉を合わせた修辞法)を用いてブルジョワを揶揄したのです。当時はブルジョワであると同時に貴族、ということはあり得なかったからです。

ジェントルマンという言葉が世界中に広がる大成功を得たのは、この言葉が「衣服」と「道徳」というふたつの次元を含んでいるためです。衣服の点では、ある種のエレガンスや都会的な洗練を感じさせる装いを意味します。道徳的な側面においては、モンテーニュ流のオネット・オム、つまり品行方正を旨とする人を指します。

未亡人や孤児を擁護する中世の騎士像がその原型です。「騎士道精神」や「紳士的な振る舞い」というのは、すなわち貴婦人たちの足元にひざまづいて敬意を表すことです。

ーー『若きロンドン市民への手紙』は架空の書簡ですが、随所に散りばめられたアドバイスは実生活に活かせるものだったのでしょうか?実際に有効なアドバイスですか?

もちろん!そういう意味では、ナディーヌ・ドゥ・ロチルド(編集部注:フランス・ロスチャイルド家の一員)のアドバイスとはまったく違います。サッカレーの著作は風刺形式を取っています。現代ならパリでひと旗上げようと田舎から出てきた若者にアドバイスするといったところでしょう。フレデリック・ベグべデが書いてもおかしくないような作風です。

ブラウン氏は「barbon(頑固爺さん)」です。英語の「fogy」という言葉をフランス語に訳すときに私はこの語を当てました。腹の突き出た、かなり年配の男性で、若作りする気もなく、誘惑ゲームにも出世レースにももう関心はない。寛大かつ明晰なまなざしで社会を観察しています。わしは騙されんぞ、と。

最初の手紙からさっそく、この「頑固爺さん」はロードのふりをしてはいかんと甥に忠告しています。つまり、身の丈に合わない振る舞いはするなと。彼はこう書いています。「山羊鬚は剃るべし。ターコイズの宝飾品など身につけてはならない。自分を大きく見せようとするものではない」。品行方正とは、作法を守り、身の丈に合わない行いをしないことです。

ーー現代においてジェントルマンであることは何を意味するのでしょうか?あなたにとって、ジェントルマンを体現する人物とは?

「紳士協定」という表現で強調されているのは、契約の内容よりも、誓約という行いの方です。言ったことは必ず守る、それがジェントルマンです。いわば道徳的なエレガンスです。ジェームズ・ボンドしかり、『キングスマン』のコリン・ファースしかり、アルセーヌ・ルパンしかり。ルパンは泥棒ですが、ある種の倫理観を持っています。

ーーとはいえジェントルマンであることは現代では時代遅れではありませんか?いまでも存在理由はあるのでしょうか?

SNSが普及し、インターネットに匿名の悪口を書き込むような時代には時代錯誤に見えるかもしれません。しかし善良さは時代錯誤でしょうか?品行方正は時代錯誤でしょうか?投票に行く人は減りつつありますが、民主主義は時代錯誤なのでしょうか?

これはじっくり考える必要があります。ジェントルマンという言葉にはどこか古典的な要素があります。ところで古典主義とは何でしょうか?古くからあり、現在まで存続している美徳のことです。あらゆる時代に属しているために、どの時代にも属さないもののこと。時代や流行を超越する美徳です。

ーー今日ジェントルマンとして振る舞うことはどんな点で時代錯誤なのでしょうか?

『手紙』に書き留められている多くのアドバイスのひとつに、自慢をするなというものがあります。ラ・ロシュフコーも「礼儀をわきまえた人は自画自賛しない」と言っています。

ところがいま、世間で行なわれていることはその逆です。現代の人々は一日中、自分を売り込もう、自分の値を吊り上げようと必死です。

ジェントルマンはむしろ婉曲表現を好みます。実にイギリス的です。例えば、ドナルド・トランプとチャールズ皇太子がそれぞれの典型です。どちらがジェントルマンかはあえて言いませんが……。

「さりげなさを心がける」

ーーブラウン氏はこの調子で服装に関するアドバイスもしています。いわく、エレガントであることに加えて、ある種の無頓著さも必要だと。

素晴らしい言葉があります。「どこかバカンスのような雰囲気が感じられる装いを心がけるべし」。つまり、凝り過ぎはよくないということです。

さり気なさを心がけること。他者に気詰まりな思いをさせない、話し方や奇抜な服装で他者を萎縮させないためです。すなわちスノッブ(インテリぶること)の対極です。

ーーそれゆえサッカレーはジェントルマンとダンディを対比します。そして、そこに政治的な次元の対立を見ています。

ダンディという言葉にはフランス語では比較的ポジティブな意味合いがありますが、ダンディとはいい服を着たパンクのことです。ダンディは機能のためではなく、「身だしなみのいいブルジョワを苛立たせる」ためにおしゃれをする人です。ですからダンディは服装のコードを無視するわけです。ブラウン氏が言う当時のダンディは、いわば現代の「ヒップスター」に当たります。ヒップスターは身なりで目立とうとします。

この点において、ジェントルマンは目立つことはしません。ジェントルマンであることは、「身の丈に合わないことはしない」という道義心に支えられています。今日、ジェントルマンであることは珍しい。現代はコミュニケーションが幅を利かせる時代です。そしてコミュニケーションとは、実際の自分よりも大きく見せることです。今は、つねにより多くを目指す時代。より深い味わい、より多くの色、より個性的に、プラス、プラス……。ラテン語にはaurea mediocritas(黄金の中庸)という言葉がありますが、節度をわきまえ、丁度いいバランスを保てるのがジェントルマンです。

ーーチャールズ皇太子をジェントルマンとおっしゃるのもそういう意味ですか?

たとえばチャールズ皇太子は、息子たちを放ったらかしたとさんざん批判されました。ハリー王子がそのことで父親を強く非難したという報道もあります……。ことは複雑です。チャールズ皇太子は子どもたちを愛していますが、カメラの前では、決して愛情表現をせず、表情を固くして、ただまっすぐ前へ歩いて行くばかりでした。

チャールズ皇太子が体現するのは、ウォーホールがいう、誰でも15分は有名人になれる、というこのスペクタクル社会の対極にある世界です。映画『ザ・クイーン』で描かれたように、エリザベス女王は母親を亡くした孫たちの悲しみに決して無関心ではありませんが、それを“ことさら見せる”ことはできないのです。

ーーダンディは“洗練された反社会的”存在、つまりパンクであるとおっしゃいました。そして、こうした姿勢には政治的企図が含まれていると。ここで対立しているふたつの政治的企図とはどういったものでしょうか?

パンク、つまりダンディは、19世紀のブルジョワ民主主義的な潮流に対する反発です。ボードレールの「憂鬱と理想」が手がかりになります。憂鬱は理想がこの世に具現されていないという事実から生じます。芸術だけが自然に勝る。パンクとは自然や有用性に反するものを讃えることです。テオフィル・ゴーティエは「美しいものは有用ではあり得ない。家庭にある有用なもの、それは便所だ。そんなものが美しいわけがない」と言って、「芸術のための芸術」を唱えます。

それに対して、ブラウン氏はブルジョワのセネカ(編集部注:古代ローマの哲学者)。革命とは無縁な哲学者です。「この世のあらゆる共和主義者には気の毒だが、社会には等級や順位というものがあり、それらは尊重しなければならない」と彼は言います。そうしたものを尊重するからといって、システムに盲従するわけではありません。これは生活における法則なのです。礼儀をわきまえることはよき市民であるための第一の資質です。ひとりひとりが規則を守ることによって、共生が可能になり、そこから初めて交流や民主主義という形式も生まれてくるのです。

「ゲームの規則を守る」

ーー「ジェントルマンはつねに公正、公平に振る舞う」と書かれています。公正、公平の基準とは何なのでしょうか?

基本的にはユダヤキリスト教的道徳観ですが、それだけではありません。ここには実にイギリス的なものがあります。ブレグジットが言われるのはずっと先のことですが。ジェントルマンは節度をわきまえている。だからこそ公平なのです。

ジェントルマンは極端なことはしません。例えばイギリス議会では、議員たちは互いに「The Right Honourable Gentleman(または) Lady」という敬称をつけて呼び合います。議長に対して言葉をかけるときは3人称を使います。ときには議員同士激しく論戦することもありますが、コードは遵守しています。フランスの国民議会でサッカーのユニフォームを着て発言台に立ったフランソワ・リュファンとは違います。競技場に審判がいるように、コードがあり、ルールがある。こうして初めてゲームが成立するわけです。そうでなければゲームではない、単なる蛮行です。理性を保つ、それがジェントルマンです。

ーー「Keep calm and carry on(平静を保ち、普段の生活を続けよ)」という女王の座右の銘を思い出させます……。

もちろんです。「ブルジョワのセネカ」には、そうしたストイックな側面があります。

ーーサッカレーは著作を通して、女性の状況について大きな理解を示し、あらゆる立場の女性(「上流婦人、使用人や職人の妻」)に敬意を払っています。これはジェントルマンの基本ですか?

ジェントルマンであることは、正直な人間や騎士に近いのです。騎士は何をしますか?貴婦人の足元に武器を置いて、献身の誓いをする。もちろん欲望もありますが、女性を崇高なものに昇華する、それが騎士の女性に対する接し方です。女性を一段高いところに置くわけです。

見かけを取り繕った家父長制だとMeToo運動に糾弾されるかもしれませんが、実際は逆なのです。未亡人や孤児を擁護し、敬意を払うのが騎士です。騎士が守る相手が既婚女性のこともありました。馬上試合ともなれば、騎士は貴婦人を象徴する色を身につけて試合に臨みました。自分が誓いを捧げた女性はあらゆる賛辞に値する存在であると騎士は決め込んでいるのです。

サッカレーはこうした騎士道的な高潔さや、慇懃さという発想を受け継いでいます。ブラウン氏は甥に「lady’s manであれ」と助言します。女性にもてる男になれという意味ではありません。女性に奉仕する男、つまり貴婦人に忠誠を誓った中世の騎士のような男であれ、という意味です。

ーー「女性に奉仕する」とはどういう意味でしょうか?女性に権力を与えるという意味ですか?

そこまでは言っていません。ただサッカレーは、女性は男性より知的に優れていると書いています。女性は偽善的だが、男性は横暴。女性は社会の潤滑剤だと。男性はエゴイストだと言っています。ロースト肉がテーブルに到着すると、男性はわれ先に一番大きな肉片を取って、むさぼり食う。男たちは自分のことしか考えていない。

サッカレーが言う潤滑剤の効果とは、女性と親しく付き合うことで、男性は自分自身以外のことを考えるようになるということです。

ーー当時は女性こそが他者性を象徴する存在だったと……?どのようにして、女性の状況に関するこうした意識、こうした明晰さをサッカレーは持つに至ったのでしょうか?

サッカレーは社会の鋭敏な観察者です。女性たちが横暴な男たちと一緒に暮らしていることも、女性にはあらゆることが禁止されている以上、彼女たちには巧みに立ち回る以外に方法がないことも彼は見抜いていました。彼は決して女性に無理強いしてはならない、つねに自分の妻の友であれとも言っています。「友人になれる妻を見つけるように努めなさい。嫁入り支度にユーモアも備えている女性を見つけるように」。こういうところもとてもイギリスらしい。

ユーモアとは、事態が悲劇的であるとわかっていながら、さりげないやり方で緊張感をほぐすこと以外の何物でもありません。すべて過ぎ去る、何もかもはかない、という意識があるのです。

「サッカレーは18世紀の社交界を称賛していた」

ーーこうしたことは若い世代の人たちにはやはりかなり抽象的です。彼らはこんな疑問を持つかもしれません。フェミニストであることと、女性のためにドアを開けることは両立可能なのだろうか……?

フェミニストたちに尋ねるべきですね。『フランス流誘惑術』の著者である文学教授のクロード・アビブは、フェミニストであることと紳士であることは矛盾しないと言っています。エリザベス・バダンテールも啓蒙時代に関する著書のなかで、18世紀のアンシャンレジームの社交界、つまりサロンのような交流の場は男女が混じっていたと書いています。フランスにやって来た外国人はみなこのことに驚嘆しました。フランスは当時、世界のお手本だったのです。

ところがナポレオンがこの男女平等の理想に歯止めをかけてしまった。イギリス社交界はヴィクトリア朝時代に非常に厳格化しました。サッカレーはその点について実に明確に認識しており、男女ミックスが主流だった18世紀の社交界を称賛していました。女性と男性の間に再び距離を置き、性差という区別を設けたのは清教徒たちです。男女混合・平等が進んでも、敬意の気持ちを表現することをはばかる必要はありません。

(1)William M. Thackeray著「Lettre à un jeune Londonien」Sean Rose訳・注釈、Marc Poitvinイラスト、Rue d’Ulm出版刊(2)Sean Rose 著「Meilleur des Amis」2017年、Actes Sud出版刊

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