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【戦国武将に学ぶ】後藤又兵衛~黒田家出奔で「奉公構え」、大坂夏の陣で散る〜

  • 2021.7.25
浮世絵「太平記英勇伝 八十二 後藤又兵衛基次」(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)
浮世絵「太平記英勇伝 八十二 後藤又兵衛基次」(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

大坂の陣の活躍で知られる後藤又兵衛はその諱(いみな、本名)、すなわち、名乗りを「基次」とするのが普通ですが、2016年に出版された福田千鶴氏の「後藤又兵衛」によると、基次とみえるのは後世の編さん史料だけで、同時代の史料には「正親」とあったり、「年房」とあったりして、基次とは出てこないとのことです。従って、ここでは通称を使って、後藤又兵衛と記すことにします。

長政と兄弟同様に育つ

生年については、1558(永禄元)年説と1560年説がありますが、水戸家が編さんした「大日本史」に従って、1560年説を採用しておきます。父の名前も後藤新右衛門とする説、後藤新左衛門とする説がありますが、新左衛門は新右衛門の誤記とみて、ここでは新右衛門とします。

後藤氏は播磨国神崎郡春日山城(兵庫県福崎町)の城主でしたが、本家が羽柴秀吉に敵対したため滅ぼされ、その分家だった又兵衛は、伯父にあたる藤岡九兵衛とともに黒田官兵衛に仕えました。官兵衛の息子・長政と兄弟のように育てられたといいます。1573(天正元)年、又兵衛14歳の時です。

ところが、1578年、荒木村重が織田信長に対して謀反を起こしたとき、官兵衛がその説得に有岡城へ赴き、捕らわれてしまいました。その際、伯父・藤岡九兵衛が黒田家を裏切ったため、又兵衛も同罪として、黒田家から追放されています。その後、秀吉の家臣・仙石秀久に仕え、四国攻めに従軍するなどしていましたが、長政の知るところとなり、長政に呼び戻される形で、黒田家に帰参がかないました。

長政の家臣としての又兵衛の活躍が確かめられるのは、1586(天正14)年の豊前宇留津(うるつ)城の戦いからで、翌年の秀吉による九州攻め、さらに続く文禄・慶長の役でも大活躍し、特に、長政が先手を務めた晋州(チンジュ)城攻めでは一番乗りを果たし、名を上げています。

1600(慶長5)年の関ケ原の戦いの前哨戦、合渡川の戦いでも、又兵衛は一番乗りの活躍をしています。戦い後の論功行賞で、長政が筑前52万3000石で福岡城に入ると、又兵衛は1万6000石を与えられ、福岡城の支城大隈(おおくま)城の城主となっています。そこまでは順調な出世でした。ところが、そこから暗転します。

仕官かなわず、大坂城へ

又兵衛は長政に仕える黒田家の重臣ということで、他大名との交流がありました。その一人が細川忠興だったのですが、関ケ原の戦後処理を巡って、長政と忠興は犬猿の仲になっていたのです。忠興と親しくしていた又兵衛は何と、1606(慶長11)年、黒田家を退去してしまったのです。

後藤又兵衛の武名は、世間に広く知られていました。諸大名も、戦功のあった武将を家臣として抱えようとしていた時代ですので、又兵衛もすぐ再就職できると考えていたのかもしれません。

ところが、そのもくろみは外れてしまいました。黒田家の裏事情に通じている又兵衛が他家に仕官するのを嫌った長政が、いわゆる「奉公構え」という手段に打って出たのです。旧主の許しがない限り、他家が雇うことも禁じる制度で、これで、又兵衛は他家に仕官する道を完全に閉ざされてしまいました。

その後、又兵衛は故郷の播磨に戻り、池田輝政の世話になりますが、仕官はできず、浪人生活が続きます。大坂冬の陣の直前、1614(慶長19)年10月6日、ないし7日のことになりますが、豊臣秀頼の招きによって大坂城に入りました。

真田信繁(幸村)、毛利勝永、長宗我部盛親らとともに、冬の陣、翌年の夏の陣を戦った又兵衛は1615年5月6日、小松山の戦いで壮絶な最期を遂げます。黒田家を去って暗転した人生でしたが、大坂の陣の立役者として、歴史に名を残す形となりました。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

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