1. トップ
  2. テレビプロデューサー・佐久間宣行の『オールナイトニッポン0』への道〈前編〉

テレビプロデューサー・佐久間宣行の『オールナイトニッポン0』への道〈前編〉

  • 2021.6.29
  • 1614 views

この春、「サラリーマンパーソナリティ」から「脱サラパーソナリティ」となったオールナイトニッポンの“船長”ことテレビプロデューサーの佐久間宣行さん。その数奇な「カルチャー人生」をインタビューしてみました。

「最初は高校生や大学生が聴くと想定してたんですが、思ったよりも幅広くて。若いサラリーマンもいれば、僕より上の人も結構いて。家庭を持ってる人、僕と同じように仕事や子育てが忙しかったけど少し余裕が出てきた人。『佐久間さんの番組で久々にオールナイトを聴いたけどやっぱりラジオって面白いですね』と言ってくださる人が多くて。大企業のめちゃめちゃ偉い人も聴いてるらしいです(笑)」

水曜深夜3時放送の『オールナイトニッポン0(ゼロ)』のパーソナリティを務めるテレビプロデューサーの佐久間宣行さん。2 0 1 9年、ANN史上初のサラリーマンパーソナリティに抜擢され、この春、勤務していたテレビ東京を退職、「脱サラパーソナリティ」に。佐久間さんは、いかにして「憧れのパーソナリティ」になったのか、その道程をカルチャー遍歴とともに聞いてみました。

中学生でANNに出合い
サブカル道を突き進んだ

—まず、ラジオ遍歴の話を。佐久間さんがラジオを聴き始めたのはいつ頃でしたか?

「中学生でした。中1でやっと自分の部屋がもらえたんです。それまでずっと妹と一緒で、1人になって夜更かしができるようになって。最初に聴いたのは、ニッポン放送の『三宅裕司のヤングパラダイス』。僕は、福島県いわき市出身で、いわき市って海沿いの街なのでギリギリ東京のキー局の電波が入るんです。で、その時間帯はニッポン放送を聴く習慣がなんとなくできて。するとANNもその続きで聴き始めるじゃないですか。最初はとんねるずさんだったと思います。あと、伊集院光さんを聴いたり。いちばん夢中になったのは、川村かおりさんと電気グルーヴかなあ。それが1990年代初頭、高1ぐらいの頃。土曜の2部。川村さんの番組が終わって電気グルーヴが始まって。のっけから悪口連発で面食らったけど、めちゃくちゃ面白くて。そこからナゴム系(注: 電気グルーヴの前身バンド「人生」が所属していたケラリーノ・サンドロヴィッチ主宰のインディーズレーベル)の音楽などを聴くようになっていって」

—サブカルの王道を歩み始めたんですね。

「80年代末〜90年代初頭、僕が中学生の頃に、そういったカルチャーが同時多発的にいろんな方面からあふれ出たんです。それを媒介していたのがANNや、『冗談画報』のようなフジテレビの深夜番組だった。とにかく、サブカルチャーの洗礼を一気に浴びたんです。音楽、お笑い、演劇、アニメ」

—アニメも。

「結局、地方に住んでると、最初に出合えるサブカルってアニメなんです。多くの人にとって、人生最初に出合うサブカルって漫画じゃないですか。僕は『ドラえもん』が最初で、『のび太の宇宙開拓史』という映画を小1の頃に観たんですが、それが衝撃的に面白くて。世の中にこんなに面白いものがあるんだと思ったのがエンタメとの出合いなんです。それで、テレビ東京のアニメをよく観るようになり、『機動警察パトレイバー』に夢中になって、『アニメージュ』を読むようになって」

—テレビもアニメ中心でしたか?

「バラエティも観てました、もちろん。ただ、当時流行った『夕やけニャンニャン』とか体育会系的なノリはそんなに好きになれなくて。初めて好きになったバラエティは『夢で逢えたら』(注: ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、野沢直子、清水ミチコによる伝説の番組)。それまでは、ドリフも『ひょうきん族』も、夢中になるほどではなかったんです。『夢で逢えたら』は初めて自分のセンスに近い笑いだと感じられたバラエティでした」

—じゃあ、高校生の頃はサブカルにどっぷりハマった感じだったのでしょうか?

「といっても、当時はネットなんてないし、いわき市に届くものはほとんど何もない。必死にちょっとずつかき集める感じだったので、東京のおじいちゃんに伝えて送ってもらったり、お金をためて東京へ行ってまとめ買いをしたり、単館の映画を観に行ったり。中高生の頃はいつも思ってましたよ。ああ、東京に住んでいればなあって。東京にいれば第三舞台(鴻上尚史主宰の劇団)も、東京サンシャインボーイズ(三谷幸喜主宰の劇団)も観られるのにって。第三舞台はギリギリ観ることができたけど、サンシャインボーイズは1回も観られないまま休止してしまったんです」

—そういったことを語り合う友達って学校にはいたりしましたか?

「まったくいません。小名浜という漁港と『フラガール』の舞台になった炭鉱のある街なんですが、基本ヤンキー文化なんです。『アニメージュ』なんてまるでエロ本のようにコソコソ隠れて読んでました(笑)。だから、二重人格に近かったです。高校は男子校で、みんな女の子の話ばっかりするんです。一応話は合わせるし、おしゃべりも得意だからバカバカしい話もするけれど、内心、アニメ観たいから早く家帰りてぇなとか思ってましたから。せっせとバイトして、お金をためて、たま〜に東京へ遊びに行っては演劇を観て、映画を観て。そんなことをしてたら高校生活が終わっちゃったなって。だから、いまの学生はめちゃくちゃうらやましい。まず、あの時代の東京に生まれて人生をやり直したい。中学生の娘を見てるとカルチャーまみれの日々を送ってるんで、たまにムカつきます(笑)」

—お父さんの遺伝子を引き継いで。

「そうなんです。いまでは最新のオタクカルチャーは娘が教えてくれるんです」

—その後、佐久間さんは、大学進学で東京に出てくることになるわけですが、その頃はどんなラジオを聴いていましたか?

「東京に出て来てすぐの頃、ABCラジオの『誠のサイキック青年団』(注: 北野誠の人気深夜番組)のイベントに行きました。高校の頃、〝サイキッカー〟だったんで(笑)」

—あれは関西ローカルの番組ですよね?どうやって聴くことができたんですか?

「『サイキック』は日曜深夜の番組だったのでANNの放送がなく、電波が飛び交ってないからか、海沿いだからか、奇跡的にABCが入って。イベントで出会ったサイキッカーと仲良くなって関西へ遊びにも行きました」

—へえ〜!

「ただ、大学のときに下宿していた場所が電波障害のあるところで。ラジオが全然入らなくなってしまったんです。だから実は、ブランクがあって。そこからポッカリ5年ぐらい、96年ぐらいから2000年ぐらいまで、社会人になって引っ越しするまでまったく聴けてないんです。それで、就職してから、ナインティナインを聴きたいなあと思い、少しずつ聴いたりもしましたが、いかんせん、なかなか10代の頃のようにはいかない。だから、正確にいうと、radikoなんです、僕の中で完全にラジオカルチャーが復活したのは」

—テレビの仕事が忙しくて聴けなかった?

「そうです。あと子育て。僕は27で結婚して30で子どもが生まれたんです。だから、子どもがもうすぐ小学校に入る頃、35ぐらいですね。仕事もADから抜け出して、自分でコントロールができるようになり、もう一回カルチャーを楽しめるようになったのは」

—ちなみに、佐久間さんは、毎週娘さんにお弁当を作ってるとラジオでおっしゃってて。

「作ってます、ずっと。でも、仕方がないからじゃなく、作りたくてやってるんです。好きなんですよ、お弁当作りが(笑)」

GINZA2021年6月号掲載

元記事で読む
の記事をもっとみる