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駅で困っている「ベビーカー」の女性を助けず、素通りする人たちに私が伝えたいこと【連載】大原扁理のトーキョー知恵の和(12)

  • 2021.6.14
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何とはいえないのだけど何となく息苦しい。そんな気持ちでいる人へ、東京で週休5日・年収90万円台という「隠居生活」を実践した大原扁理さんに生き方のヒントを尋ねる企画「トーキョー知恵の和」。今回のテーマは「東京と『助け合い』」です。

東京という街と「人助け」

例えば朝の通勤ラッシュ時、ベビーカーを持って階段を上れず困っているお母さんを見掛けたとき、あなたはどうしますか? 助けずそのまま素通りしてしまった、という経験がある人もなかにはいるかもしれません。人と人とが助け合う本来の意味とは何か。東京で週休5日・年収90万円台の「隠居生活」を実践した大原扁理(おおはら へんり)さんが考えます。(構成:ULM編集部)

※ ※ ※

突然ですが、「人助け」と聞くと、みなさんはどういうイメージがありますか? お金がないとできない? 助けてもらうのは申し訳ない? または困っているのはその人の責任だから、助けない?

今回は、私のなかで「助ける・助けられる」の意味が変わっていった体験をお伝えします。

私は23歳のときに上京し、ひとり暮らしをはじめました。が、23区内で借りた部屋の家賃7万円をはじめ、食費や交通費や税金を払うのに精いっぱいで、すぐに金銭的余裕を失いました。

毎日何かしら仕事をしていたにもかかわらず、財布にも心にも余裕がない。するとどうなるかというと、困っている人を見たり聞いたりしても、無視するようになります。「自分で何とかしろ」と。

「人を助けたら損をする」?

あのころ私は、人を助けたら自分が何か損するような気がして、少しでも損しないようにと、毎日荒(すさ)んだ気持ちで生きていました。

大原さんが東京で感じたことを描いたイラスト(画像:大原扁理さん制作)

余裕がなくてつらいときって、もうこれ以上つらくならないように、やたらと過剰防衛モードになってしまうのかもしれません。でも何よりつらいのは、そんな自分が好きになれないことでした。

25歳のとき、そんな生活に嫌気が差して、郊外の激安アパート(家賃2万8000円)に逃亡しました。もともとぜいたくがしたいわけでもなかったので、生活水準は変わらず。なのに生活費がぐっと下がり、思いがけず余裕ができました。

それをいいことに、労働環境の悪い仕事を少しずつ減らし、人間関係も整理し、携帯も解約。社会とは最低限つながるだけにしておいて、最終的に週休5日&月収7万円で生活していけるようになったんです。私はこれを、「隠居生活」と勝手に呼んでいました。

ハッキリいって、収入は史上最低記録更新です。それなのに心にはずいぶん余裕があった。

すると、大したことではないけれど、街で障がい者や高齢者が困っているときは声をかけ、駅の階段でベビーカーを運ぼうとしているママがいたら手を貸す。そんなことがごく自然にできるようになりました。

低収入なのに余裕ができた理由

ヒマなので、友人が風邪で寝込んでいたら買い出しに行って3日分くらいの料理を作りおき。私は3食自炊派で料理は得意なので、こんなのは楽勝です。

また、外国人の友人が格安アパートを探していると聞けば、ネットと店頭で「外国人可」の物件をリサーチ&通訳。格安不動産に興味がある私は、自分が住むわけでもないのにいろんな物件を見に行けて楽しかった。

過剰な損得勘定からも解放されたうえに、誰かのために片手が常に空いているような感じが新鮮でした。空いてるものなら貸せばいいと思える心の余裕もうれしかった。

だから隠居後のほうが、自分を嫌いにならずに済んでいるのがありがたいし、収入が多くても自分のことしか考えられずに毎日ギスギスしていたあの頃には戻りたくない。

あるとき、自分も助けてもらった

31歳のとき、「隠居生活」が海外でもできるのか確かめてみようと、東京から台湾に移住してみました。

外国人が新しい生活をはじめるとき、まずネックになるのが部屋探しですよね。親切な台湾人が手伝ってくれたんですが、私はこのとき、「あ、人助けが返って来た」と感じ、素直に助けられる(助けてもらう)ことができました。

同時に、普段からちまちま人助けをしておかなかったら、人からの親切にちょっと遠慮してしまい、自分ひとりでやろうとしたかもしれない、とも思った。

「助け合い」のハードルが高い東京

東京に住んでいると、「助ける・助けられる」のハードルがけっこう高いですよね。助けるにしても、「声をかけても大丈夫だろうか」みたいなちゅうちょがないといったらウソになるし、助けられるにしても、「悪いから」と断ったり、「タダより高いものはない、ってやつでは……?」と疑ってみたり。

最近は、もし道端で困って泣いている女性や子どもがいても、下手に助けようとすると不審者に間違われることがあるからと、声をかけずそのまま通り過ぎる人も少なくないという話を聞きました。

もうちょっと気軽に、誰もが助けたり、助けられたり、できないものだろうか。

「情けは人のためならず」の解釈

「情けは人のためならず」という言葉があります。「情けをかけてもその人のためにはならない」という意味に誤解されることもありますが、正しくは、「情けをかけることは、巡り巡って返ってくるのだから、自分のためである」。

私はさらにその先があると思っています。

それは、情けをかけるということは、自分のためにもなるけれど、ひいては自分も生きているこの社会を、助けやすく助けられやすいものにするため。だから自分を含めたこの社会に生きるみんなのためである。

何でも自力で解決しなければいけない世界と、必要なときは助けを求められる世界。生きやすさでいえば、圧倒的に後者だと思います。

個人の損得を考えないほうがラク

ところで収入が史上最低記録を更新したにもかかわらず、どうしてそんな心境に至ったのでしょうか。たぶん、心の余裕ができたことで、物事を大局的に見られるようになったからではないか。

例えば今回のテーマ「助ける・助けない」。隠居前は、個人的な損得の問題だったのが、隠居後は自分を含めた社会の損得へと、主語が拡大しているような気がします。

この「助ける・助けない」はみんなの損得の問題なんだから、私ひとりが損した得したと、目の前のことで一喜一憂しなくていい。またお金も、能力も同じ。すべてを私ひとりの損得の話に矮小(わいしょう)化しないほうが、結局は自分がラクになる、というのは発見でした。

「助ける・助けない」を個人的な損得の問題として考えると、誰かに何かをしてもらったら、それと同等、またはそれ以上の何かを、その人になるべく早く返す、というのが最適解になると思う。となると、お返しができていない状態は申し訳ないと、肩身が狭く感じられてしまうかもしれない。でも社会全体で帳尻が合えばいいなら、最適解に一気に幅ができます。

大原さんが東京で感じたことを描いたイラスト(画像:大原扁理さん制作)

「あのとき誰かに助けてもらった」という恩は、その人に返さなくてもいい。今すぐでなくても、等価でなくてもいい。その決まりきっていない部分は、自分の好きなタイミングと好きな方法で、いつか誰かにお返しすればいい。

「助ける・助けられる」が循環する社会

そんな感じでもいいんだと思えば、「助ける・助けられる」のハードルはぐっと低くなり、お返しの内容も豊かになり、そして何よりちょっとワクワクしてきませんか。いつか思いがけず、誰かの優しさ(助け)に出合うかもしれない、と。

「助ける・助けられる」がなめらかに循環する、私はそういう社会に生きていたい。だからこれからも、まずは私から、できることをムリなく続けて行こうと思っています。

大原扁理(隠居生活者・著述家)

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