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コロナ禍における生きがいとは?【ひとみしょうの余談ですみません】

  • 2021.5.29

コロナ禍において外出制限を余儀なくされて、友だちともろくに会えず、なんとなく元気のない人もいると思います。

わたしたちは外に出ることによって、また、誰かと会っておしゃべりすることによって、知らず知らずのうちに、自分を含めた「世界」が「変化」していることを知り、そのことで「生きていると実感する」ので、それができないとなると、どうしてもつらいですね。

さて、そのようなつらい状況において、わたしたちは「生きがい」を何に見出せばいいのでしょうか。

今回はこのことについて、一緒に考えてみたいと思います。

誰とおしゃべりをするのか?

ぼくのような仕事をしていれば、コロナ禍であってもなくても、あまり関係がありません。朝起きて文章を書いて、午後は忙しければ引き続き文章を書くし、時間があれば資料か論文か本を読む、という「ずっとひとりで当たり前」の生活を送っているからです。

だから当然のように、コロナ禍における外出自粛や外出制限がつらくなかった、というか、むしろ、時代が自分の方に寄ってきたとすら思うのです!

言い方を換えると、世間の多くの人たちは、「おしゃべり」をすることによって、気晴らしをして、明日を生きる元気を得ているように見えるのですが、自分と対話することで元気を得るというのが、「本来的な」あり方ではないか、ということです。

たとえば、コロナ禍以前は、夜の7時くらいから、下手したら朝の2時3時までお酒を飲む人がいましたね。お酒を飲みながら誰かとなにかをおしゃべりしていたら、あっという間に8時間経っていて、「仕事の8時間は長いのに、飲んでるときの8時間はあっと言う間!」と思った、ということが(ある人は)あったと思います。

でも、今は9時くらいで飲食店は終わりです。だから、2時間くらいしか飲めませんね。

2時間しか飲めない今から見れば、8時間「も」飲んで、まだ飲み足りないと感じていた過去の方が「異常」に思えますよね?だって8時間も「あんなもん」を飲んでるんですよ!

ごく簡略化して言うなら、自分と対話するという「豊かさ」を切り捨てていたコロナ禍以前の方が異常に感じるのです。あなたはそうお感じになりませんか?

コロナ禍がわたしたちに教えたこと

そのことを拡大解釈するなら、というか一般化して語るなら、本来的に生きていくうえで必要な「自分の心と対話すること」の大切さを、コロナ禍がわたしたちに教えてくれた、と言えるのではないかと思います。

他人とおしゃべりするのも楽しいし、有意義です(だから8時間も飲んで、まだ飲み足りないのだから!)

でもしかし、それと同等かそれ以上に、自分と対話することも大切です。

ワイドショーで誰かが言ったことを鵜呑みにしてオウム返しにするのもいいけれど、でもそれより、自分との対話を通して、自分は「本当は」なにを考えているのかを知ることが大切であるはずです。

世間に流されるまま「より多くを稼ごう」と努力するのも立派ですが、でもそれ以上に、「自分は本当はいくらくらいあれば幸せなのか。いくら以上あればそれは余剰金なのか」を知ることも大切であるはずです。

本当に大切なこと

話のポイントは「本当は」です。本当は、自分はなにを考えているのだろう?本当は、世間に流されているだけで、自分の幸せはそこにはないのではないだろうか?

たとえばそういった「本当は」を知ろうと思えば、わたしたちは自分と対話するしかないのです。自分の心という海よりも広大なものを、少しずつ、手探りで、ゆっくりと、でもたしかに見つめないと、「本当」のことが見えてこないのです。

そうやって発見された「なにか」が、じつは、あなた独自の「豊かさ」であり、「財産」であり、それが、あなたの人生をほのかに、でもたしかに照らすのです。

コロナ禍における生きがいとは、「あなたの人生をほのかに、でもたしかに照らしてくれるなにか」を探す「時」を所有できることであり、また、それに出会えること、ではないでしょうか。

ひとみしょう(作家/日本自殺予防学会会員)

※参考・引用 『絶望名人カフカの人生論』頭木弘樹(新潮社)2014

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