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何度も心身の危機に直面した哲学者が語る「孤独」の本当の価値

  • 2021.4.29
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コロナ禍による新しい生活様式で、人と会う機会が激減。漠然とした不安や孤独を抱える人は多いのではないでしょうか。しかし哲学者の小川仁志さんは、「コロナ禍であろうと、そうでなかろうと、基本的に人間が心を病む状況はあまり変わらない」と言います――。

※本稿は、小川仁志『幸福論3.0 価値観衝突時代の生き方を考える』(方丈社)の一部を再編集したものです。

屋上で携帯電話を使用する女性
※写真はイメージです
不安になるのは“自由”があるから

新型コロナウイルスで不安な日々を過ごしている人が多いと思います。人間を苦しめるものの一つが不安です。これは睡眠不足だとか、疲れだとか、あるいは身体の痛みとかとはまったく性質の異なる苦しみです。なぜなら、純粋に心の苦しみだからです。

でも、身体の痛みと同じで、それがある限り苦しまないといけないのです。だから安らかに日常を過ごすためには、不安を取り除く必要があります。

十九世紀のデンマークの哲学者キルケゴールは、彼自身、常に不安を抱いていたのでしょう。著書『不安の概念』には、そんなキルケゴールが不安とは何かを分析し、かつ自分自身がいかにして不安を克服していったかがつづられています。

哲学者キルケゴールに学ぶ「不安」の正体

まず、そもそも不安とは何か? 一言でいうと何かを恐れることです。ただ、キルケゴールにいわせると、それは恐怖とは異なります。なぜなら、恐怖とは恐れる対象がはっきりしているからです。他方、不安の場合は、対象が分からないのです。皆さんはどうですか?

原因がはっきりしていることもあるでしょうが、その場合はどちらかというと悩みであったり、まさに恐怖であったりするのではないでしょうか。

お金がないのは不安かもしれませんが、それは悩みともいえます。治安が悪ければ、襲われる不安がありますが、それは恐怖でもあります。

そうした状態とは違って、ただ漠然と不安だということもありますよね。これが不安の本来の姿だというわけです。

キルケゴールはこれを「自由のめまい」と表現します。つまり、人間には自由があるわけですが、それゆえに不安になるということです。

たとえば、私も経験がありますが、未知の世界に足を踏み入れる自由がある場合、不安を感じるのではないでしょうか。選択の余地がないなら「どうしよう」と思うことすらないわけですから。

その意味でキルケゴールは、恐怖と異なり、不安は人間しか持ちえないものだといいます。

動物は物事を恐れますが、けっして不安を抱くことはありません。これは人間という存在が、動物性と神性とを総合する「精神」を持ち備えているからだそうです。言い換えると、人間は人間だからこそ不安をその本質としているのです。

不安を取り除くには

キルケゴールは、人間が抱く不安には段階があるといいます。

最初の段階は「精神喪失の不安」です。つまり、精神を持ち備えていることを忘れ、虚心の状態に陥ることを指します。いわば不安をごまかしているような状態なのでしょう。

その次に「運命に対して不安を抱くギリシア的異教徒の立場での不安」を挙げています。

キルケゴールはあくまでキリスト教徒としての立場から論じているので、そこのところを考慮して解釈しないと分かりにくいのですが、つまり運命に対して負い目を感じる個人が、自分の自由と責任に目を向けることで抱く不安ということです。

そうして罪の自覚に到達したキリスト教的自覚の段階へと進んでいきます。「罪に対する不安」です。そこから人は信仰を求めるようになるのです。神の愛を信じて、救済を求めるということです。これがもとになって、最後の「信仰と結びついている不安」の段階へと至ります。ここまできてようやく、人は信仰の反復を持続し、不安を克服していけるようになるというわけです。

窓辺で頬杖をつき、考え込む女性
※写真はイメージです

そう言われると、信仰を抱かない限り不安は取り除けないかのように聞こえますが、私は必ずしもそうではないと思っています。要は何か信じられるものがあればいいのです。

確信を持っている人は不安を抱きません。たとえば、試験などでも、絶対に合格すると確信していれば不安など抱きようもないでしょう。これは不安を解消する一つのヒントになるように思います。

不安を消す究極の手段

このキルケゴールの不安の議論を参考にして、後に二十世紀ドイツのハイデガーも不安について論じています。

ハイデガーもまた、この世にポンと投げ出され、自由に選択をしていかなければならない人間存在の心情を不安と位置づけています。ただ、キルケゴールと異なるのは、自由のめまいの根拠が、自分の負うべき責任にあるのではなく、むしろ逆に自分の中にはないとしている点です。

何をやっていいのか不安だけど、その不安の根拠が自分にあるなら、まだなんとかなります。でもそれが、自分ではどうすることもできないものだとすると、不安の解消はより難しいものになってきますよね。そこでハイデガーは、死を意識し、覚悟して生きることで不安が解消されると訴えるのです。

これは究極の不安の解消法であるように思います。自分はいつか死んでしまうという事実だけは絶対のものです。そのことを意識すると、たしかにあれこれ不安に思っているのがもったいなく感じられるのではないでしょうか。少なくとも私はそうです。もうやるしかないわけですから。

心の隙間を別の興味関心で埋めてしまう手も

とはいえ、死に急き立てられるように生きるというのでは、いくら不安から解放されたとしても、心安らかに過ごすことはできません。そこで提案したいのが、「埋め合わせる」という方法です。

小川仁志『幸福論3.0 価値観衝突時代の生き方を考える』(方丈社)
小川仁志『幸福論3.0 価値観衝突時代の生き方を考える』(方丈社)

キルケゴールのいう信仰も、ハイデガーのいう死も、いずれも動揺する心を大いなるものにすがらせて、揺れないようにするというアプローチだといえます。それとは違うものとして、私は心を別のもので埋め合わせることを考えてみたいのです。

なぜなら、不安になるということは、心が動揺しているといえると同時に、心に不安というものをはびこらせる隙をつくっているともいえるように思うからです。したがって、もしその隙間を埋めつくすことができれば、不安など生じようもないのではないでしょうか。

具体的には、別のことを考えるということです。楽しいことや興奮するようなことがあればベストですが、必ずしもそうでなくてもいいと思います。

要は何か別のことで頭がいっぱいになればいいのです。ただし、それ自体が不安の種になってしまっては元も子もありませんが。

たとえば、新しい仕事を前にして不安になるとすれば、そのことを考えなくてすむように、心の隙間に別の興味関心を強制的に持ち込むのです。

人はそれを気晴らしと呼ぶこともあります。結局は同じことかもしれませんが、私はこれを心の隙間を埋める不安の解消法として、積極的にノウハウ化してはどうかと思っています。しかも哲学的に。ぜひ試してみてください。

人がたくさんいるから「一人」を感じる

コロナ禍で自粛生活を強いられたり、必然的に人との付き合いが減ったという人は多いと思います。私の勤務する大学でも、新入生がそのせいで孤独を感じているということが問題になりました。

私たちの日常を悩ませる原因の一つは、間違いなく孤独です。孤独以外の問題は一人で解決することが可能です。でも、孤独だけはそういうわけにはいかないのです。そこがやっかいなところです。

なぜなら、孤独というのは一人で寂しいと思う感覚ですから、誰かほかの人の協力なくしては解決することができないのです。少なくとも私たちはそう思っています。でも、本当にそうなのでしょうか?

孤独とは、一人で寂しいと思う感覚だと指摘しました。それは一般的にそう思われているだろうということです。ただ、哲学者たちは必ずしもそういう定義はしていません。たとえば孤独についてもっとも鋭い議論を展開していると思われる日本の哲学者三木清は、次のように表現しています。「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にあるのである」と。

「孤独」の正体

つまり、孤独というのは、実は一人でいるから感じるのではなく、むしろ人がたくさんいるところにいるにもかかわらず、その人たちと距離を感じるときに生じるというわけです。ここでいう「間」とは、距離のことでしょう。物理的な距離ではなく、精神的な距離です。

したがって、必ずしも一人でいるから寂しいというわけではなく、大勢でいても寂しさを感じることがあるのです。いや、むしろそのほうが、寂しさが際立つのです。

私も経験がありますが、アメリカの大学に研究で滞在していたとき、パーティーの場でしばしばそんな感覚にとらわれました。最初のころはまだなじんでいなかったし、友だちもいなかったからだと思いますが、その場自体はにぎやかで、適当に話もしていたにもかかわらず孤独だったのです。

孤独であることは悪いことではない

では、精神的な距離とは何なのでしょうか? おそらくそれは、誰も自分を理解してくれないという不安のことなのではないかと思います。これも私の経験に根差しているのですが、いくら自分が主張しても、誰にも賛同してもらえず、孤立してしまう状況であるように思います。それは別に何か積極的に主張する場合に限らず、普通に日常を過ごす中でも生じ得ることです。

自分の進みたい道があるのに、誰も認めてくれないとか、よかれと思ってやったことが、誰からも評価されないといったような場合に。そんなとき人は孤独を感じるのではないでしょうか。

しかし、だからといって他者に迎合したり、自分の理想を押し殺すことが孤独を解消する道なのでしょうか? もしそうなら、自分というものを捨てなければなりません。それは孤独以上につらいことなのではないでしょうか。無理にみんなと同じ意見を持ち、本当にやりたいことや、主張したいことから目をそむける。それでは生きている心地がしないのではないかと思います。

さらに問題なのは、そもそもそうした態度が望ましいのかどうかです。孤独が怖いからといって、誰もが理想を捨てるような世の中になったら、危険ではないかと思うのです。

全体主義とまではいいませんが、少なくともみんなが間違っているような場合に、それを正す人はもういなくなってしまうからです。

だから私は、孤独であることはけっして悪いことではないと思っています。現に多くの哲学者たちが、孤独を讃えるような言葉を残しています。いくつか紹介しましょう。

なぜ哲学者たちは孤独を愛したのか

たとえば、ドイツの哲学者ショーペンハウアーは次のようにいっています。

「人間は孤独でいるかぎり、かれ自身であり得るのだ。だから孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間にほかならぬ」

あるいは、スイスの哲学者ヒルティは、「ある程度孤独を愛することは、静かな精神の発展のためにも、またおよそ真実の幸福のためにも、絶対に必要である」といっています。かのニーチェも、「おお、孤独よ! あなたは私のふるさとだ! 孤独よ!」と孤独を讃えているのです。

共通しているのは、孤独を愛することの必要性と、それこそが真理を追求することになるという点です。

孤独をどう受け止めるかで人生は変わる

そういう孤独のプラスの側面をとらえて、孤高という言葉を遣う人もいます。孤高とは、超然とした態度で理想を追い求めることです。

たしかに、これは孤独の理想的な側面を表現し得ているように思えます。しかし、誰もがそんなに高尚な態度で日常を過ごすことができるわけではないでしょう。そこで私は孤高などといわずとも、ポジティブな孤独といえばいいのではないかと思っています。

孤独にもネガティブな側面とポジティブな側面があると思うのです。ネガティブな側面は、私たちが一般に考えているように、寂しい感覚にとらわれ、内にこもってしまうような態度です。

それに対して、ポジティブな側面というのは、あえて一人になることで、物事に集中し、一人の時間を楽しむことです。

これからは人生100年時代が到来するといいます。その長い人生の過程で、一人で過ごす時間も必然的に多くなることと思います。そうしたとき、孤独をポジティブにとらえられる人と、そうでない人とでは、人生の密度が変わってくるように思うのです。

もし孤独だなと感じたら、何かに集中すればいいのです。要は自分一人の時間を、ポジティブなものに転換すればいいのです。

考えてみれば、自分の時間がとれるなんてすばらしいことです。私たちの時間は常に誰かが利用しようと虎視眈々と狙っています。詐欺や押し売りまがいのセールスに捧げる時間は言語道断ですが、会社に捧げる時間や家族に捧げる時間まで、それは時に私たちの意に反して奪われてしまうものです。ですから、孤独だなと感じたら、逆にラッキーだと思うくらいがいいと思います。やっと自分の時間が持てると。そうしてコロナ禍の孤独を力強く乗り切っていきましょう。

小川 仁志(おがわ・ひとし)
山口大学国際総合科学部教授
京都府生まれ。京都大学法学部卒業。名古屋市立大学大学院博士後期課程修了。伊藤忠商事勤務、フリーターの経歴を持つ。市民のための「哲学カフェ」を主宰。

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