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Vo.31 ハリウッドでの「偏見をなぞる」という行為

  • 2021.3.26
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前回、アメリカで横行するアジア人とアジア系アメリカ人に対する差別、暴力について書いたが、今月16日にジョージア州で起こった銃乱射事件を機に、この問題に新たなレイヤーが隠れていたことが明らかになってきた。

あくまでも犯人の動機はアジア人へのヘイトクライムではないという発表を警察はしてきているが、AAPI(アジアン・アメリカン・パシフィック・アイランダー)コミュニティはその報道に怒り心頭に発したし、事件の当日、会見を開いた警官が「彼はうんざりしていて、とても冴えない一日だった」という白人至上主義からくる不適切極まりない発言をしたことでもコミュニティの怒りを煽った。

警察や政府が発表したがらないが、AAPIコミュニティの人々は、アジア人嫌いの差別意識はもとより、「アジア人女性」をターゲットにしたと認識している。殺害された8人のうち6人がアジア人女性で、狙われた3つのマッサージ店はいずれもアジアンマッサージパーラーだったからだ。

警察はその後、犯人にセックス依存症があったと発表し、自分の性への衝動を抑えるために、そういった性的なサービスをする店を抹消したかったといったような発言をしているとコメントした。今回ターゲットにされたマッサージ店をよく知る人物が、性行為を提供する従業員もいたという証言をしていたが、全店、全員がそうだったとの報道はない。

そこで、アジア人女性が、いかにこれまで歪んだフェティシゼーションの対象にされてきたかという抗議がたくさん出てきた。黄禍論をひきずった長年の偏見の上に、そもそもメディアなどで取り上げられる機会が少ない上に、アニメ文化、ポルノ業界など、いろいろなところでいままで作り上げられてきたアジア人、ひいてはアジア人女性のイメージ作りというものにも責任があり、見直していかなくてはいけないんじゃないかという声があがってきている。ここ最近の報道を見ていて、アップル社は“Asian”というキーワードが性的なものを関連させるとしてペアレンタルコントロールをかけているなんて話まで出てきた。

それらのイメージというものは、アジア人女性はか弱く、従属的で、過度な性的関心を持つなどといった偏見極まりないものだ。

私が身を置くハリウッドの映画界も、そのステレオタイプを作り上げてきた責任ある業界としてさまざまな議論が交わされている。

いままでどれだけの映画がアジア人のネガティブイメージを作ってきたか、それに対して声を上げられる人は少なかった。なぜなら私たちアジア人はすでにこの業界で与えられるチャンスが少ない中、与えられた役割をやっていくほか、生き残る術はなかったからだ。

自分も、過去携わってきた作品や演じた役柄を振り返ってみた。あまりにもアジア人を侮蔑的に捉えた描き方のものは断ってきたが、受けた仕事の中には「海外から見たステレオタイプのアジア人、もしくは日本人」もあったし、なんなら脚本には書かれていなかったとしても、自分が演じる中で、海外オーディエンスが求めるステレオタイプの日本人女性像をより濃く出そうとしていた節もあったような気もする。過度な性描写のある日本を舞台にした作品などにも出演したこともある。

私が演じてきた英語を喋る日本人、もしくはアジア人の役は、半分の割合で自分の本来持つアクセントよりも強いアクセントにして欲しいと要求され、それに応じてきた。アジア人は英語が下手というステレオタイプがあり、訛っていたほうが「エキゾティック」と思われていたからだ。事実、いまだに訛りのないアメリカ英語を話すアジアンアメリカンに「なんでそんなに英語が上手なの?」などとトンチンカンなことを言う非アジア人は多い。

ハリウッドに拠点を置く俳優たちはこぞって殺陣などのマーシャルアーツを学んできた。私たちが与えられる役のほとんどは、サムライのようなアクションフィギュアや、ヤクザ、オタク、笑い者にされる存在、または従順な大和撫子のようなカリカチュアが多く、仕事が欲しければそこへフィットする術を学ばなければいけなかった。

自分のしてきた仕事が、長く続くこのようなアジア人への偏見をなぞるような行為だったのかもしれないと思ったら愕然とした。

同じようなコメントを出しているハリウッドのアジア系の俳優たちのインタビューなども読み漁った。みんな同じく、心のどこかでおかしいとは思いながら、現場で出来るだけオーセンティシティを要求しつつ、苦虫を噛み潰してきたと吐露していた。問題の根源は、脚本家や監督にアジア人が少ないということでもある。

日本がテーマのハリウッド作品が作られる時は、日本からは酷評されることが多い。そりゃそうだろう、物語を書いているのは私たち日本人でないことがほとんどだからだ。これからもっとアジア人の書くアジア人のナラティブが出てこないといけないという問題が話されるようになってきている。

最近でいえば『ミナリ』という韓国系アメリカンの映画が、ゴールデングローブ賞で外国語映画としてカテゴリーされたことでAAPIコミュニティが抗議をしたが、ゴールデングローブ側はノミネートのカテゴリーを変えなかった。委員会側の言い分は、劇中会話が50%以上英語でなければ国内映画だと言えないということだった。私が見たところ、英語も多く話されていたが、彼らかすると十分でないようだ(『ミナリ』は外国語映画最優秀賞を受賞)。

対比として興味深いのは、中国系のクロエ・ジャオ監督が脚本も手掛けた『ノマドランド』。アメリカを舞台、白人のアメリカ人キャストでかため、全編英語だったため、正式にアメリカ映画だとみなされ見事ゴールデングローブで最優秀作品賞を受賞した。アジア系の女性監督が監督賞も初受賞したことは快挙であったが、アメリカのマジョリティに感情移入してもらえないと、こういう場所で評価してもらえないのだろうかとちょっと寂しい気持ちにもなった。

そう、私たちはマイノリティの中でも声なきマイノリティだったのだ。モデルマイノリティ(模範的少数派)という詭弁を突きつけられ、一生懸命働くことで白人社会から認められるんだと、文句を言わずわきまえろという風潮に抑圧されてきた。

しかし声を取り戻したアジア人たちは、もう黙っていないだろう。アジア人が描くアジア人の新しくオーセンティックな物語がどんどん作られていくはずだ。

BLMが再燃したことをきっかけに、『風とともに去りぬ』が視聴できなくなったり、最近ではディズニーが『ダンボ』や『ピーター・パン』の配信を止めると発表を出した。

この流れは、『ティファニーで朝食を』や『フルメタルジャケット』などの作品も回顧されるようになっていくのだろうか? そうなればきっと人権問題として前進したい人々と、過去の作品にノスタルジーを感じる人々とで意見の交換がされていくだろう。とても興味深いと思う。

ジョージアで起きた事件の被害者の通夜イベントが各地で行われた。多くの人の力強いスピーチはとても感慨深かった。

たかが映画、と思われる方もいるかもしれない。しかし実生活に多様性があまりない人からすると、テレビや映画から流れてくる○○人像というものは、想像以上に強烈である。私たち日本人も知らず知らずのうちに他者に対しての偏見をメディアから植え付けられているのだ。

今回の一連のアジア人ヘイトは何重になった偏見を、ひとつひとつ剥がしながら、お互いをリスペクトし、どんな人種差別も許さない、目指すべき理想の世の中へと向かっていくために、それぞれの業界が見直していかなくてはいけない作業を伴う、少々長い戦いになるだろう。

アメリカに移民として暮らす私にも、もうこういった古いステレオタイプを継続させることに加担するような仕事を選びたくないし、もっとアジア人が作る私たちの物語が受け入れられていくことを楽しみに感じている。

そして何よりも、いまだかつてないアジアンアメリカンの結束力に、少なからず勇気と希望を覚えている。

また日本に住む日本人の皆さんにも、これを他人事と思って欲しくないと感じている。日本国内でも、マイノリティに対する偏見や差別は看過できない問題だからだ。

ジョージアの銃乱射事件、そのほかすべての差別事件の犠牲者とその愛する人々に心からお悔やみ申し上げます。

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