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【戦国武将に学ぶ】徳川家康(上)~多難な人生の末に築いた260年の天下~

  • 2020.12.14
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徳川家康像(静岡市)
徳川家康像(静岡市)

徳川家康は1542(天文11)年、三河・岡崎城(愛知県岡崎市)城主・松平広忠の長男として生まれています。幼名を竹千代といいましたが、3歳のとき、母・お大の方は離縁され、母子生き別れとなってしまいました。この離縁は三河を巡って争っていた今川氏と織田氏の対立が影響したものでしたが、同時に、家康の人生を次々に襲う数多き苦難の始まりでした。その家康の「一生」と「人柄」について、2回に分けてお話しします。

今川家で成長

6歳のとき、織田信秀(信長の父)の人質となります。このときの経緯について、父・広忠が今川義元の保護を受ける見返りとして竹千代が今川氏の人質になるはずだったのに、今川館に向かう途中で織田方に通じた武将にだまされ、8歳まで、織田信秀の人質として尾張に抑留されたというのがこれまでの通説でした。しかし、最近、だまされて拉致されたのではなく、広忠が信秀と戦って負けたため、人質として出されたとする説が浮上し、議論となっています。

8歳からは今川義元の人質として育ちました。「人質」というと軟禁状態の生活と思われがちですが、義元の軍師で漢籍や軍学に詳しい雪斎(せっさい)の教えを受けていますし、元服のときには義元から「元」の一字をもらい、初めは元信、次いで元康と名乗りました。これは重臣待遇です。また、系図上、義元の妹の娘、すなわち、めいにあたる築山殿と結婚しているため、一門待遇でもあります。暗い、陰惨な人質のイメージは払拭(ふっしょく)する必要がありそうです。

そして、19歳のとき、1560(永禄3)年5月19日、桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれたのを機に今川家から離れ、独立して三河の戦国大名となり、次いで、信長と同盟を結び、さらに今川領遠江を手に入れ、三河・遠江2カ国の大名となり、浜松城に移ります。

1572(元亀3)年12月、武田信玄に攻められ、三方原(みかたがはら)の戦いで大敗を喫しますが、翌年、信玄が亡くなったため、息をふき返し、1575(天正3)年5月の長篠(ながしの)・設楽原(したらがはら)の戦いで、信長の援軍を得て武田勝頼を破り、その後は信長の同盟者として、信長の天下布武に協力することになります。

将軍の座、わずか2年で譲る

その信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたとき、家康は信長のすすめで堺を遊覧中で何もできず、信長のあだ討ちを果たした豊臣秀吉が信長の後継者として台頭するのを許すしかありませんでした。

その秀吉に唯一挑んだのが1584年の小牧・長久手の戦いで、局地戦では家康が勝ったものの、秀吉の優勢勝ちで終わり、その後は秀吉に臣従することになります。同盟者とはいえ、実質的には信長を支える立場だった家康が独立できそうな機会だったのに、結局、今度は秀吉を支えることになったのです。

1590年の秀吉による小田原攻めの後、北条氏遺領の関東に移り、江戸城を居城とし、石高は約250万石に。豊臣政権のナンバー2として「五大老」の一人になり、豊臣政権を支え、「律義な内府(だいふ)」と呼ばれました。「内府」とは内大臣のことです。

秀吉が1598(慶長3)年に亡くなったとき、子の秀頼はわずか6歳でした。「五奉行一の実力者」石田三成は「6歳の幼君でも周りが盛り立ていけばやっていける」と豊臣家世襲路線を主張します。それに対し、家康は「天下は回り持ち」という考えを前面に押し出し、この衝突が1600年の関ケ原の戦いとなります。

この戦いで、家康は反三成派の福島正則や黒田長政らを味方にして勝利しましたが、敵方の主力である毛利家を当日の合戦に参加させなかったり、小早川秀秋を寝返らせたりと周到な根回しをしたことは有名です。幾つもの苦難を経てきた経験から、天下分け目の一戦を前に盤石の手を打ったということかもしれません。

その3年後には征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きます。しかし、それで終わりではありません。大坂城には秀頼が健在で「秀頼が成人した暁には秀頼が関白になり、豊臣政権が復活する」との臆測が流れていました。特に、福島正則や加藤清正ら親豊臣派の大名にはその思い、というか願いがあったかもしれません。

ところが何と、家康はたった2年で将軍職を子の秀忠に譲ったのです。これは「将軍職は徳川家が世襲する」という宣言であり、親豊臣派の大名たちの機先を制するものでもありました。それ以後、家康は隠居城として駿府城を築き、「大御所」として江戸の将軍・秀忠をリモートコントロールして、1614(慶長19)年に大坂冬の陣、翌年には夏の陣を仕掛け、豊臣家を滅ぼします。

それで安心したのか、家康自身は翌1616(元和2)年4月17日に亡くなりました。しかし、彼が築いた徳川政権は260年余りにわたって続くことになります。享年75でした。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

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