1. トップ
  2. 【戦国武将に学ぶ】福島正則~豊臣家の転落招いた「小山評定」での発言~

【戦国武将に学ぶ】福島正則~豊臣家の転落招いた「小山評定」での発言~

  • 2020.11.22
福島正則を描いた浮世絵「太平記英勇伝 三十三」(部分、東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)
福島正則を描いた浮世絵「太平記英勇伝 三十三」(部分、東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

福島正則は尾張国海部(あま)郡二ツ寺(愛知県あま市二ツ寺)の福島正信の長男として、1561(永禄4)年に生まれています。父・正信については義父ともいわれ、実父は清須(愛知県清須市)のおけ大工だったともいいます。母は秀吉の母(大政所)の妹、つまり、秀吉の叔母にあたりますので、その縁で幼少の頃から、秀吉に仕え、「市松」と呼ばれていました。

秀吉の下で次々と武功

はじめ200石からスタートし、1578(天正6)年の播磨三木城(兵庫県三木市)攻めあたりから戦功を上げ始め、1581年の鳥取城攻め、さらに、1582年の山崎の戦いでも大活躍し、同年9月には播磨国神東郡内で300石加増され、500石の知行を受けています。

その頃、秀吉家臣で500石取りレベルの部将は何人もいましたが、翌1583年、正則は一躍その10倍、5000石を与えられ、周りを驚かせます。そのきっかけがその年4月21日に近江・賤ケ岳周辺で、秀吉が柴田勝家と戦った賤ケ岳の戦いです。

正則はこの戦いで一番槍(やり)・一番首の殊勲を立て、「賤ケ岳七本槍」として広く知られることとなります。加藤清正を含む、ほかの6人が与えられたのは3000石だったので、7人の中でも別格の働きだったということでしょう。

その後も、小牧・長久手の戦いや紀州・雑賀(さいか)攻めでも手柄を立て、伊予国5郡11万3200石を与えられ、今治(愛媛県今治市)城主に。さらに、九州攻め、小田原攻めでも活躍し、1595(文禄4)年には、24万石で尾張の清洲城(愛知県清須市)に入城しています。

このように、秀吉子飼いの部将として、豊臣恩顧の大名の代表ともいうべき正則でしたが、豊臣政権の「五奉行一の実力者」といわれた石田三成とは反りが合わず、秀吉死後は徳川家康に接近していきます。

1600(慶長5)年、家康が豊臣大名を率いて会津上杉攻めに向かったとき、三成が挙兵し、家康は下野の小山(おやま)(栃木県小山市)で軍議を開きます。有名な「小山評定」です。その軍議の場で真っ先に口を開き、「秀頼さまのためにならない奸臣(かんしん)三成を除くため、家康殿と一緒に戦いたい」と発言し、結局、軍議は「三成討つべし」に決しました。

そこで、家康は正則に先鋒(せんぽう)を命じ、正則は前哨戦の岐阜城攻め、そして、9月15日の関ケ原合戦当日も目覚ましい働きをして、東軍を勝利に導いています。

関ケ原後、2カ国を得たものの…

戦い後の論功行賞で、正則は安芸・備後2カ国49万8223石を与えられ、それまで、毛利輝元の居城だった広島城主となります。しかし、その後の展開は正則が考えていたものとはかなり違ったものとなり、秀頼ではなく、家康が政権を樹立していくこととなります。それを正則がどういう思いで見ていたか、書かれたものがありませんので、正則の真意を知ることはできません。

三成憎しの一心で家康に協力したものの、豊臣家が転落していくことは予想していなかったのではないでしょうか。内心、じくじたる思いがあったと思われます。正則は政治状況を見極めて、先を見通す能力があまりなかったのかもしれません。

そのことは、正則の人生を暗転させる“広島城無断修築”の一件にも関係してきます。周知のように、江戸幕府は「武家諸法度」で、居城の修理については事前に届け出るよう定めていました。ところが、1619(元和5)年、「広島城を無届けで修築した」として、正則は信濃川中島4万5000石に減封の上、蟄居(ちっきょ)させられているのです。

正則のような豊臣恩顧の大名を大禄(たいろく)のまま残しておくことが得策ではないと、幕府が考えていることを見抜けなかったというしかありません。心ならずも、豊臣家転落の引き金を小山で引いてしまった正則は自らも2カ国を領する大名から転落し、人生を終えることになったのです。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

元記事で読む
の記事をもっとみる