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人はなぜ暴力に向かうのか。『民衆暴力─一揆・暴動・虐殺の日本近代』があぶりだす現代の課題。【VOGUE BOOK CLUB|治部れんげ】

  • 2020.11.9
『民衆暴力─一揆・暴動・虐殺の日本近代』<br /> 藤野裕子著<br /> 中公新書
9784121026057民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代0藤野裕子 著中公新書2020/8/21『民衆暴力─一揆・暴動・虐殺の日本近代』 藤野裕子著 中公新書

タイトルを見て落ち着かない気分になったのは「暴力はいけない」という現代の道徳観ゆえだろう。副題に「一揆・暴力・虐殺の日本近代」とあるから、歴史の話だと分かる。怖そうだけれど、過去の話なら、理解できそうだ。海外に目を転じれば、反政府デモの中で暴力事件も起きている。歴史を知れば、今を理解する糸口がつかめるかもしれない。

そう考えて読み始め、すぐ気づいたのは、現代日本の課題について深く考えさせられる本ということだ。

例えば、著者は1873年、現在の岡山県で起きた「美作一揆」について詳述する。数万人の農民が参加し、被差別部落を襲撃、老若男女を虐殺した。事件の発端は首謀者が意図的に流した嘘の情報で、大規模な民衆暴力が起きた背景には、社会の急激かつ大きな変化があったそうだ。

主な原因は、身分解放令である。被差別部落の人々も農民など他の人々も「同じ」である、としたものだ。これは、明治の日本政府が欧米列強と肩を並べるため、古い制度や因習を撤廃する必要にせまられて出したものだった。もともと人権尊重を目指した差別撤廃の命令ではなく、政府の公式見解と地域で生きる人々の心性には大きな溝があった。

一揆に参加した農民たちは、これまで自分たちより劣った存在と認識してきた人々を、同じ人間として受け入れられなかった。加えて新政府の徴兵は一家の働き手を奪い、経済的に楽ではない人々に、子どもを学校に通わせる義務を新たに負わせた。

要するに近代化は、一般の農民にとって負担増を意味したわけだ。これは歴史の教科書で習った進歩、発展といったプラスのイメージとは全く異なる、近代化の隠された側面である。そうした中、特定の仕事に従事しながら経済力を蓄える被差別部落もあったそうだ。

変化を受容できないことや、新しいものへの怖れは鬱屈した怒りや反発、ついには被差別部落に住む人々に対する暴力に発展していく。殺害方法は残虐であり、竹やりで刺し石を投げつけ、藁の束を背負わせて火をつけたりした。子どもも大人も高齢者も男性も女性も殺された。

1952年に制定された破壊活動防止法に対する抗議デモでは、参加した学生たちの多くが逮捕された。丸の内警察署に集まる人々。Photo_ Margaret Bourke-White/The LIFE Picture Collection via Getty Images
Vintage Print1952年に制定された破壊活動防止法に対する抗議デモでは、参加した学生たちの多くが逮捕された。丸の内警察署に集まる人々。Photo: Margaret Bourke-White/The LIFE Picture Collection via Getty Images

このように、資料に基づいて描かれる民衆による暴力は非常に恐ろしい。

けれども本書の主張は、昔の人は野蛮だった、ということではない。美作一揆の首謀者として処刑された人物は取り調べに対し「徴兵制・地租改正・屠牛許可・斬髪・賤民称廃止」などの新政府の政策に不満を持っていた、と述べたという。「この供述書は一揆から五カ月も経った後に、五回の拷問を受けて作成されており、すべてを鵜呑みにできない」(P. 48~49)という記述は、短いながら重要なことに気づかせてくれる。

それは、民衆による暴力を恐ろしいもの、と感じる私たちが、一方では国家権力による暴力に対しては鈍感になっている事実だ。つまり、本書が紹介する民衆暴力が現代の常識に照らして異様に映るのは、今の世界では、国家権力による暴力の独占が当然視されていることの裏返しなのである。

美作一揆の首謀者たちは、裁判官ではなく、県知事などに任された裁判により「即決処分」、すなわち、現地で死刑などの刑に処せられた。国家の治安を揺るがす大規模な暴動であったとはいえ、司法による適正手続きを経ずに、刑罰の執行という国から個人に対する暴力が行使されたことになる。

一揆の鎮圧と同時に行われていた、中国、朝鮮半島など東アジアへの日本の「進出」も見逃せない。ここでは軍事力という暴力を国家権力が担っている(P. 65)。

本書では、民衆による4つの主要な暴力事件──新政反対一揆、秩父事件、日比谷焼き打ち事件、関東大震災時の朝鮮人虐殺──を扱う。いずれも、刑罰の執行や戦争といった形で国家が暴力を独占していく過渡期に起きた事件である。

アメリカ大統領選挙の開票作業が続く中、ホワイトハウス近辺でBlack Lives Matterの旗を掲げて抗議運動する人々。Photo_ Al Drago/Getty Images
Protests Continue In Washington, DC As Presidential Contest Remains Undecidedアメリカ大統領選挙の開票作業が続く中、ホワイトハウス近辺でBlack Lives Matterの旗を掲げて抗議運動する人々。Photo: Al Drago/Getty Images

そして、これらの暴力は、民衆から政府など権力に向かったものと、被差別部落や在日朝鮮人など社会的弱者に向かったものに分けられる。現代の感覚では、前者は抵抗権の行使(例えばMeTooやBlack Lives Matterのように)であり意義を見いだせるが、後者は差別・虐殺(近例ではジョージ・フロイド事件)であり許されない、と思える。

例えば関東大事震災時の朝鮮人虐殺については、殺害対象を、テロリスト、危険分子とみなした人々の心情が描かれる。暴力を振るう側は、それを自衛と認識して正当化するのである。加えて、同じ民衆暴力が埼玉県の警察署、本庄署に向かう。

「朝鮮人に対する差別意識に基づいて『天下晴れての人殺し』をするプロセスで、日常的に潜在していた警察への反感が噴出して、警察署を焼き打ちにしようとした」(P. 199)

本書は、民衆の暴力が自分より強い者に向かう場合と弱い者に向かう場合をあえて分けない。「権力への暴力と被差別者への暴力とは、どちらかだけを切り取って評価したり、批判したりすることが困難なほど、時に渾然一体となっていた。(中略)したがって過去の民衆暴力を簡単に否定することも、権力への抵抗として称揚することとも、異なる態度が求められる」(P. 208-209)。むすびに記された言葉から、今を生きる私たちが学ぶことは少なくない。

はしがきに書かれている通り、過去の事実を「なかった」とか「仕方なかった」「正当防衛だった」と主張するような、歴史修正主義はSNSなどに跋扈(ばっこ)している。これに抗うための基礎知識を得るために、学生からビジネスパーソンまで広く読んでほしい1冊だ。

Text: Renge Jibu

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