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認知症の父は「まったく怒らず、子どものよう」だと語る娘……「ムカつくけど一緒に過ごす」と決めた思い

  • 2020.10.5
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“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)

そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

三井麻美さん(仮名・31)は高校生のときに、まだ52歳だった父、義徳さん(仮名)が若年性アルツハイマー病と診断された。徘徊して毎回警察のお世話になり、警察からもご近所からも怒られる。自治体に相談しても解決法は示されず、義徳さんを受け入れてくれる施設も見つからなかった。

(前回:父が行方不明になって警察へーー「今どこにいるかわからない」逆探知でようやく見つけた姿は……

いつか私のことも忘れられてしまう

認知症の父は「まったく怒らず、子どものよう」だと語る娘……「ムカつくけど一緒に過ごす」と決めた思いの画像1
hooomeさんによる写真ACからの写真

義徳さんの徘徊で大変な思いをしながらも、7年も在宅介護ができたのは、義徳さんが穏やかだったからだと顧みる。

「もともと、怒りっぽい人ではありませんでした。最初のころは病院から処方された、病気の進行を遅らせる薬を飲んでいましたが、飲むと急にキレてモノに当たるようになり、飲ませるのをやめたのです。それからはまったく怒ることもなく、身体レベルも落ちず、穏やかで子どものよう。家族のこともわかっていました。問題が起きると、家族で『こんなことがあった』と話したり、父のことを知っている友人に話を聞いてもらったりしたので、ストレスをため込むこともありませんでした」

病気だとわかるまでは、「またおかしなことを言ってる」「なんでこんなこともできないの?」と義徳さんを責めたり、顔も見たくないと思ったりしたこともあった。

「でも、病気とわかってからは、話が通じなくてイライラすることはあっても、いつか私のことも、家族のことも忘れてしまうという思いがずっと心にあり、少しでも思い出に残ることをしたいと考えるようになったんです。だからムカつくけど、海に行ったり、ドライブしたりして、父と一緒に過ごすようにしていたんだと思います」

当時の携帯には、変顔をする義徳さんの写真がたくさん残っている。

父とバージンロードを歩きたかった

在宅介護が7年過ぎて、ようやく義徳さんを受け入れてくれる施設が見つかった。知り合いの紹介で、隣県の特別養護老人ホームに入居できることになったのだ。そこは自宅から、高速に乗っても1時間半かかる場所だった。

義徳さんは「施設に入る」ということがまったく理解できていないようで、入所した日、母の典子さん(仮名・63)とともに帰ろうとして、ロックされた扉を壊してしまったという。

それは、麻美さんの結婚式1カ月前のことだった。くしくも、と言っていいのだろうか。

「父は、結婚について理解していませんでしたし、私の彼氏という認識もなかったと思います。娘の私としてはバージンロードを一緒に歩きたかったし、ウエディングドレス姿も見せてあげたかった。それまで父は家族のこともわかっていたし、身体的にも普通に生活できるレベルでしたが、これからもずっと在宅で介護するとなると限界はある。寂しい反面、ホッとしたのも正直なところです」

認知症の父の存在は結婚の障壁にはならなかったのだろうか。酷な質問だとは思いつつも、聞いてみた。

「私と旦那さんの実家は、偶然にも徒歩1分圏内の場所にあるのですが、学区が違うので家族どうしの付き合いもなかったんです。でも父はご近所を徘徊していたので、旦那さんの実家にも頻繁に行っていたそうです。多分面識はなかったのですが、私から旦那さんを通じて話が行っていたので、旦那さんの家族は理解してくれていたようでした。ご迷惑だったとは思いますが、結婚に関しても反対されることもなく、父が施設に入ってからも、父の心配をしてくれていました」

――続きは10月11日公開

坂口鈴香(さかぐち・すずか)
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終末ライター”。訪問した施設は100か所以上。 20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、 人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。

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