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52歳の父が若年性アルツハイマーに……「まともな会話もできない」「無表情で無言」娘の感じた異変

  • 2020.9.14

“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)。そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。

コロナ禍で、看取りや葬儀の簡略化が進んでいる。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、終末期の患者であっても、家族の面会が制限されている医療機関は少なくない。最期の時間をともに過ごすことができず、十分なお別れができない状況に、あとあと遺族に悔いが残らなければいいのだが。

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himawariinさんによる写真ACからの写真

父と最期に会えたのはたった15分

三井麻美さん(仮名・31)は、2カ月前父の義徳さん(仮名)を亡くした。享年64歳だった。

病院から「危ない」と連絡があり、母の典子さん(仮名・63)、兄(39)と駆け付けたが、コロナ禍で許された面会時間はわずか15分。医師からは、誤嚥性肺炎だと告げられた。

「父は苦しそうだけど意識ははっきりしていて、この山を乗り越えれば、またいつも通り元気になるんじゃないかと思っていました」

そんな思いもむなしく、義徳さんと会えたのはそれが最期となった。

3日後に典子さんから、義徳さんが亡くなったと連絡が来て、義徳さんが入っていた施設に向かった。

「施設で、いつも面倒をみてくれていた担当スタッフの方に、『頑張ったから、たくさん褒めてあげてくださいね』と言われて、涙が溢れました。父が施設に入って5年。ずっと面倒をみてくださった施設の方には感謝の一言です」

52歳で若年性アルツハイマーと診断

義徳さんは、若年性アルツハイマー病だった。診断されたとき、まだ52歳。麻美さんは18歳、高校生だった。

「それまでに小さな異変はたくさんありました。母が骨折しても、話しかけることもなく無表情でした。私と友人を車に乗せたとき、友人が挨拶しても無言、無表情だったので、『怖いお父さんだね』と言われたこともあります。ブドウのことを『黒い卵』と言ったり、リンゴと梨を間違えたり。同じ単語を何度も使って話してくるので、何を言ってるのかさっぱりわかりませんでした。その当時、“チラシ”とか”内緒“という言葉を連呼していました」

病院を受診したのは、義徳さんが職場で問題を起こすようになったからだった。

「建設業だったのですが、トラックを運転して逆走したりしたようで、同業の父の友人から『脳に問題があるかもしれないから、病院に行った方がいい』と言われたんです」

義徳さんの言動や様子から、家族も普通ではないと感じていたため、若年性アルツハイマー病と診断されてショックは受けたものの、「やはり」と納得する思いもあったという。

一方、義徳さんはすでに症状が進んでいたため、自分が病気だということも理解できていなかった。「どこも痛くないから、病気なんかじゃない」と言っていたのを、麻美さんは覚えている。

麻美さんは、義徳さんのことが大嫌いだったと、当時を振り返る。

「意味不明なことを話すし、まともな会話もできません。友達とはふざけて『アルツハイマーじゃない?』と笑っていたんですが、それが本当になるなんて信じられませんでした」

麻美さんはまだ高校生。アルツハイマー病についての知識はほとんどなかった。

「このころ、渡辺謙さん主演の『明日の記憶』を見て、号泣しました。若年性アルツハイマー病を治す薬はないし、進行性の病気なので、父がこれからどうなってしまうのか、不安とショックで涙が止まりませんでした」

――続きは、9月20日公開

坂口鈴香(さかぐち・すずか)
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終末ライター”。訪問した施設は100か所以上。 20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、 人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。

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