1. トップ
  2. 【戦国武将に学ぶ】武田信虎~若くして甲斐を統一した男の悲し過ぎる晩年~

【戦国武将に学ぶ】武田信虎~若くして甲斐を統一した男の悲し過ぎる晩年~

  • 2020.9.13
  • 7136 views
JR甲府駅北口にある武田信虎像
JR甲府駅北口にある武田信虎像

甲斐武田氏といえば、すぐ、武田信玄の名前が挙がりますが、その信玄が飛躍する基盤を築いたのが父・信虎でした。信虎が家督を継ぐまでの武田氏は、甲斐(山梨県)の国内で突出するほどの勢力ではなかったのです。

14歳で当主に…有力者を次々に撃破

一族内部で親子兄弟相克(そうこく)の状況が生まれ、また、穴山・小山田(おやまだ)・大井・栗原氏といった国人(こくじん)領主(在地領主)の力が強く、武田氏にとって代わろうとする動きを見せていました。

そうした混沌(こんとん)とした状況下に生まれたのが、信虎でした。1494(明応3)年の生まれといわれています。父・信縄(のぶつな)が1507(永正4)年に亡くなっていますので、信虎は数えでわずか14歳で家督を継いだことになります。

普通ならば、このような場合、一族や有力国人領主が寄ってたかって「信虎つぶし」にかかるところですが、実際は逆でした。

信虎はまず、翌1508年、父・信縄と家督を争ったことのある叔父の油川信恵(あぶらかわ・のぶよし)とその弟・岩手縄美(いわで・つなよし)を討ち、さらに、その翌年には、有力な対抗馬の一人だった小山田弥太郎を討ち死にさせることに成功しています。その勢いは止まらず、その後も武田一族の大井信達(のぶさと)や今井信是(のぶこれ)も打ち破っているのです。

15、6歳の少年領主がどこでそのような軍略を身に付けたかは不明ですが、家督を継いで数年のうちに、甲斐国内をほぼ平定したことは事実と思われます。そして、注目されるのはその後、信虎が本拠地を躑躅ヶ崎(つつじがさき、甲府市)に移し、服属させた一族や国人領主たちに、その城下に居住するよう命じていることです。

これが1519(永正16)年で、昨年は、それからちょうど500年ということで、甲府市では「こうふ開府500年」と銘打って、さまざまなイベントが繰り広げられました。これを記念して、JR甲府駅北口には信虎像が建てられました。

息子に追放され、国に帰れず

このように、武田氏を一本化し、国内の有力国人領主を服属させた信虎ですが、この後、子・信玄によって国外追放されてしまいます。それはどうしてなのか。信虎の側に何か問題があったのでしょうか。

信虎は甲斐一国を掌握した後、隣国・信濃への侵攻を開始します。これは、武将個人の単なる領土拡張欲といったものではなく、戦国大名に課された必然的なものといっていいものです。

服属させた領主を家臣としてつなぎとめておくためには、新たな侵略戦争を仕掛け、得た土地を恩賞として与える必要があったからです。そのため、信虎は強力な領主がいない信濃に攻め込んだわけですが、かなり無理を重ねたため、足をすくわれることになります。

信虎が信濃に侵攻した頃、甲斐は深刻な大飢饉(ききん)に見舞われていました。それでも無理をして信濃侵攻を続けようとする信虎から、民心は離れていったのです。

そして、もう一つが信虎と子の信玄の関係です。信虎の子は長男・信玄(晴信)のほかに、次男・信繁、三男・信廉(のぶかど)らがいましたが、信虎は信玄を嫌い、信繁に家督を譲るといったことも口にしていました。1541(天文10)年のいわゆる「信玄のクーデター」といわれるものは、そうした家督問題も一つの要因でした。

信虎が駿河の今川義元に嫁がせた娘に会うため、甲斐と駿河の国境を越えたその年6月14日、子の信玄が国境を封鎖し、信虎を甲斐に戻ることができないようにしたのです。信虎はそのまま駿河に抑留され、死ぬまで甲斐に戻ることはできませんでした。信玄と今川義元が相談の上、決行に及んだことは間違いないでしょう。

若くして国内を統一し、武将としての力量は優れたものがあった信虎ですが、その自信過剰が無理を押す形の信濃侵略につながり、足をすくわれたという印象があります。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

元記事で読む
の記事をもっとみる