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「最初は抵抗に遭うかもしれない。でも挑戦する前に諦めないで」──メイ・マスクから女性たちへのメッセージ。

  • 2020.7.30

70代を超えて現役モデルとして活躍するメイ・マスクは修士号を持つ栄養士で、食生活コンサルタントとして長年仕事を続けてきた。美と栄養、異なる2つの専門性を持ち、シングルマザーとして3人の子どもを育てた経験を持つ。

長男はテスラ創業者のイーロン、次男のキンバルは産地直送野菜を使ったレストランを経営しつつアメリカの学校で農業について教えている。長女のトスカは芸能関係の企業を経営し、映画のプロデュースや監督として活躍する。

自伝『72歳、今日が人生最高の日』(集英社)の出版を機に、メイがインタビューに応えた。

『72歳、今日が人生最高の日』(原題は“A WOMAN MAKES A PLAN”)を手にポーズを取るメイ・マスク。
『72歳、今日が人生最高の日』(原題は“A WOMAN MAKES A PLAN”)を手にポーズを取るメイ・マスク。

──栄養士とモデルという2つのキャリアを20代から続けてきました。ご自身の中で2つの仕事をどう位置付けていますか?

もともと、高校生の時に理系科目が得意であることを生かして専攻を決めたのが、栄養士になったきっかけです。子育てしながら学び続けて大学院に通い、今も学び続けています。

栄養士の資格を取り、食生活コンサルタントとして開業しました。仕事をする時は、人を助けられるのが嬉しいと感じています。体調不良を薬で治すだけでなく、食生活を見直すことで健康になれるからです。

また、10代の頃からモデルの仕事をしています。きっかけは両親の友人がモデル学校を経営していたことでした。当初は、この仕事をこんなに長く続けるとは予想していませんでした。

モデルの仕事は単に見た目を飾るだけではなく、色んな人に希望を与えられるところが好きです。私が70代でモデルをすることで「何歳になっても挑戦はできる」と多くの人々、取り分け女性に伝えられるのが嬉しいです。

2つの仕事に共通しているのは、人を勇気づけることだと思います。とりわけ、私は、女性をエンパワーしたいのです。

15歳から始めたモデル業で花開いたのは「白髪になってから」。
15歳から始めたモデル業で花開いたのは「白髪になってから」。

──南アフリカ、カナダ、アメリカと移り住みながら、新しい街で仕事を開拓する行動力をお持ちです。

引っ越して新しい街へ行ったら、誰も自分を知る人がいませんから、顧客開拓をする必要があります。私は患者の中で食生活を改善することで体調が良くなりそうな人を医師から紹介してもらいます。

例えば、医師100人に手紙を書いたら、そのうち20人が返事をくれて、面会できます。面会した20人の医師のうち、4~5人が患者を紹介してくれるといった具合です。

新しいことに挑戦すると、必ず抵抗に合いますが、それを恐れないことが大切です。モデル業についても同様で、私は自分で自分の写真をファイルしたポートフォリオを持って営業をしました。

多くの人が、モデルは若い人しかできない、と思っていた時代でしたが、あきらめずエージェントを訪問したところ、カナダのモデルエージェンシーで花嫁の母親役を探していて、仕事を得ることができました。後に、自分自身がモデルとしてウエディングドレスを着たこともあります。

やってみたいことがあるなら、挑戦してください。挑戦する前にあきらめてはいけません。

2016年のハロウィーンにて。
2016年のハロウィーンにて。

──新しいことに取り組むのが好きですか?

そうですね。年齢を壁と思わないようにしています。何事もやってみなければ分かりません。

ここ数年は、SNSの発達で営業がとても楽になりました。私はInstagramを使っていて、このおかげで自分から売り込みをしなくても、新しい仕事のオファーがきます。

最初は失敗もありましたよ。Instagramをはじめた当時、料理の写真をアップしてみたのです。健康的な食生活を広めたかったから。でも、あまり、たくさん「いいね!」がつかなかったのです。

一方、奇抜なファッションの写真を投稿すると、すごくたくさん「いいね!」がついたのです。そこでInstagramにファッション関連の投稿を増やしてみたらうまくいきました。失敗してもいいので、改善を重ねていくことが大切だと思います。

1955年、南部アフリカのカラハリ砂漠への家族旅行でのメイの両親。
1955年、南部アフリカのカラハリ砂漠への家族旅行でのメイの両親。

──メイさんのご両親は大変な冒険家でした。

私が子どもの頃、カナダから南アフリカに移住しました。父はカイロプラクティスの仕事をしていました。自家用飛行機を持っていて、GPSもない時代に両親はそれに乗ってオーストラリアへ旅行したこともあるのです。また、私たち子ども5人を連れて、家族でアフリカのカラハリ砂漠を旅行したこともありました。

両親のポリシーは「大胆かつ慎重であれ」。冒険をする際はとても慎重に計画を立てました。砂漠を家族で旅行する際は、途中で立ち寄る街を決めていて、私たちが到着しなかったら捜索が始まるよう準備をしてありました。

その影響か、私も人生において大きな決定を何度もしていますし、決定の前にはよく考えて計画を立てます。

上の写真と同じ家族旅行のひとコマ。中央のメイを含め、砂漠の真ん中で読書に没頭する子どもたち。
上の写真と同じ家族旅行のひとコマ。中央のメイを含め、砂漠の真ん中で読書に没頭する子どもたち。

──大きな挑戦を恐れない様子から、想像できませんでしたが、メイさんは、DVのサバイバーですね。元夫から受けた恐ろしい暴力のことも書いています。

はい。暴力は新婚当初から始まりました。子どもが3人いましたから、別れるのは簡単ではありませんでした。

当時、南アフリカの法律で、夫の暴力は離婚理由として認められなかったのです。また、法的に離婚が可能になった後も、夫から脅されました。別れたら私と子どもの両方を傷つけてやる、と。実家と連絡を取らせてもらえないこともありました。

当時は恐ろしくて家族にも言えなかったことを、本で初めて書いたのです。そもそも、このような経験を本に書かない方がいいのではないか、と最初は思いましたが、編集者に説得されて打ち明けることにしたのです。

1976年、3人の子どもたちと。左からイーロン、メイ、トスカ、キンバル。
1976年、3人の子どもたちと。左からイーロン、メイ、トスカ、キンバル。

──大変な思いをされたのに、克服され、自立してお子さんたちを育ててすごいと思います。DVは世界共通の問題で、日本でも起きています。私は夫から暴力を振るわれて殺されそうになった友人を連れて一緒に警察へ行ったことがあります。著書を読み、素晴らしいキャリアを持つ幸せそうな女性も、同じ経験をしてサバイブした、と知ったら勇気づけられる人がたくさんいると思いました。

日本でそんなことがあるなんて、驚きました。日本はとても平和で落ち着いた国だと思っていましたから。

私が女性たちに伝えたいのは、暴力を受けたら逃げていい、ということです。別れたら生活できないのでは、と心配している女性は多いと思います。私も同様でした。元夫のもとで裕福な生活を送っていましたから。

でもある時、子どもたちに聞いてみたのです。「夕食は何を食べたい?」って。そうしたら「ピーナツバターサンド」と答えるのを聞いて、これなら別れられる、と思いました。雨風をしのげる家があればいいって。贅沢は必要ない、幸せであることが大切だと気づきました。

離婚後の1981年、キンバル(左)とトスカ(右)とともに。
離婚後の1981年、キンバル(左)とトスカ(右)とともに。

──日本ではジェンダー規範が強く、結婚・出産すると、妻や母としての人生を優先させがちです。既婚女性が自由になれるようなアドバイスはありますか。

大事なのは、それが自分にとって幸せかどうか、だと思います。もし、妻や母として生きていて幸せなら、それでいい。でも、もし、何か物足りないと思うなら、そして少し働いてみたいと思うなら、やってみてほしいです。最初は抵抗に遭うかもしれないけれど、本当にやりたいと思うなら、やってみてほしいですね。

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Text: Renge Jibu Editor: Maya Nago

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