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ボンテージとフレンチトースト

  • 2020.4.3
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『そんなこと言うんだ』は、日常の中でふと耳にした言葉を1つ取り上げて、その言葉を聞き流せなかった理由を大切に考えていくエッセイです。#12では、なすすべもなく無力感を抱かざるをえなかった強烈な体験について描きます。なお、本稿に登場する人物の名前は仮名です。個人情報保護のため実際の人物設定に関しても変更を施しております。

■深夜のフレンチトースト

「これ、できたんじゃないか」
「見た目はそのものっすよね」

フライパンを覗き込む大学生2人は、数年後社会に放り出されてそれぞれそれなりに苦しむことになるのだけれど、今はまだ将来への不安に正面から向き合うこともできないほど幼くて、目の前の暇潰しに没頭していた。

大学近くのうらぶれたビジネスホテルの深夜帯のフロント業務。仕事内容はたまに来る客に部屋の鍵を渡し、外出する客からは預かる。それだけ。このアルバイトは数年来うちの大学の学生に受け継がれてきた、楽に稼げる働き口だ。

とにかく暇なので、学生たちは各々の個性を活かして退屈と向き合っていた。
この夜僕と先輩がチャレンジしたのは題して「限界料理」。最低限の調理器具と材料しかないこのホテルの狭いキッチンで協力しあい、いかに手の込んだ料理を作るかが我々の自己満足の指標になる。
我々は出勤早々に「ご用の方はこちらを鳴らしてください」の立て札とベルをフロントに置いて、裏のキッチンに引っ込んで創造的活動に取り組みはじめた。

このホテルにも一応朝食バイキングがある。米と食パンと業務用のキャベツの千切り、レトルトの煮物を大皿に盛って出すだけの粗末なもの。その調理のためのコンロ1口のキッチンで、卵かけご飯用の生卵、砂糖の代わりのガムシロップ、牛乳の代わりのコーヒーフレッシュをかき混ぜたものに食パンを浸して焼いた。先輩は焼き上がったフレンチトーストもどきを斜めにカットして、片方をもう片方に立てかけるように丁寧に盛り付けた。まともな料理みたいで僕は笑う。

味はフレンチトーストとは似ても似つかないひどい代物で、なのに不思議ともう1切れ欲しくなる中毒性で、2人して馬鹿みたいに笑った。
こんな馬鹿げた夜を何度も過ごして、モラトリアムにしがみつくことをお互いに許し合っていた。
そんなある日、あの人はベルを鳴らした。キッチンから駆け足でフロントに向かうと、そこには退屈をぶっ壊す劇的な存在が立っていた。

■ボンテージとスキンヘッド

フロント前に立っていたのは、ダルメシアン柄でハイレグのボンテージの上にピンクの毛皮のコートを羽織っためちゃくちゃな存在。
たっぷり長いまつ毛とくっきり濃いキャットラインが大きく反って空を向き、金に近い茶髪のロングヘアは腰まで届く。身長が高いうえに急角度のピンヒールを履いていて、全高はおそらく2メートルを超えていた。酒をかなり飲んでいるようで、上機嫌な表情だ。

そしてその横にはスキンヘッドの強面な中年が付き添っている。小柄ながら体が分厚く眼光鋭い。
なんだこの2人組は。東京の外れの、急行の停まらない街の、疲れたサラリーマンばかりが泊まるこのホテルにはかなり異質な存在だ。
あっけにとられていると、ピンクの毛皮を揺らしすごい高さのヒールをものともせずにまっすぐ歩み寄ってきて、大振りな車のキーをごとんとフロントに置いた。ダッジだ。日本には代理店がなく個人輸入するしかない、好事家が選ぶ外車。「ツインを1部屋」と言う声はよく通って、それを聞きようやく業務を思い出し、宿泊名簿への記入を促した。
長い髪を耳にかけて、さらさらと筆を走らせる。書き終えると宿泊名簿を黒いクレジットカードと一緒に差し出してきた。すべての所作が颯爽としている。

ところがここでイレギュラーな事態が発生した。宿泊名簿とクレジットカードの名前が違う。宿泊名簿には「赤坂友美」と書いてあるが、クレジットカードの裏には「赤坂友介」と署名があった。
そこで初めてしっかりと認識した。体格を見てなんとなくは感じていたが、彼女――本人から自認を知らされる機会は最後までなかったのであくまで暫定的に、”彼女”と称することにする――はおそらく男性の体で生まれた人。僕がきっと生まれて初めて出会ったトランスパーソン(※)だった。

気づきを得てしばし脳がどうしたものかとフル回転する。それを見て彼女は「ごめんなさい」とだけ言って名前を書き直そうと宿泊名簿に手を伸ばした。
ここで決断しなきゃ自分は嘘っぱちだと思った。

「いえ、大丈夫です」

思いの外大きな声が出てしまって、彼女は目を丸くした。

「大丈夫です。こちらで、大丈夫です」

繰り返した。半分以上自分に言い聞かせる言葉だった。今ここで彼女が彼女でいる邪魔をしたら一生後悔する。だってきっと、彼女は何度もそういう目に遭ってきている。「またか」って顔をさせちゃいけない。後で大人からこの判断を咎められるかもしれないが、ここで日和ったらおしまいだ。フレンチトーストもどきが4切れ詰まった腹を括った。
「友美」と書かれた宿泊名簿を断固離さないフロント係を見て、彼女はにこりと微笑んで「ありがとう」と言った。

■キャンピーな常連さん

それから赤坂さんは何度か泊まりに来るようになって、顔を合わせると二言三言会話した。スキンヘッド氏はたびたび本人のいないところで「うちの社長はさ」と赤坂さんの武勇伝を語って聞かせてくれた。まるで自分自身の自慢話のように語るその口ぶりから、敬愛の気持ちの強さが伺い知れた。
会話の中で知ったことだけど、赤坂さんはいくつもの事業を立ち上げている敏腕経営者で、スキンヘッド氏はその秘書らしかった。とびっきりの衣装でこの近くのバーにくり出して、週末の夜を楽しんでいるうちに電車がなくなるとうちのホテルに来る、という流れが常だった。

彼女のボンテージはダルメシアン柄のほか、虹色、ピンクのヒョウ柄、ミラーボールみたいなスパンコールづくめのものまでさまざまで、今にして思えばキャンプ(※)そのものだった。そしてこれも今にして思えばだけれど、彼女はあの華やかな衣装に身を包んで夜ごとドラァグ(※)なステージに立って自分を表現していたのだと想像できる。当時はそういったカルチャーを知らなかったから、ただただ衝撃的な人だった。

これは彼女自身にとって不本意な感想かもしれないので表現が難しいのだけれど、背が高く肩幅がありつつも、おそらく手術やホルモン剤による女性的なシルエットが混在する彼女の身体は、彼女が自力で切り拓いてきた半生そのもののようで切実な美しさがあった。
その身体を誇るように背筋をぴんと張った姿勢は、見ているだけのこちらにも誘爆して活力を奮い立たせるような強烈なエネルギーを帯びていた。

震災後の暗澹たる世の中で就活を経験した僕は社会に対してしっかり心を折られていて、働きながらあんなにも堂々と自己表現を楽しんでいる大人がいるんだ、ということに心底驚いた。

キャンピーの極みのような奇抜な衣装を、彼女自身の生き様や自信、覚悟のようなものがねじ伏せ、服従させるような着こなしに胸が熱くなる。
大学卒業後しばらくは望まない仕事を続けて自立して、じっくりと文章を書く仕事に就くチャンスを狙おうと思っていた僕にとって、威風堂々と自分の選択を誇って生きる彼女は1つの憧れであり、指標になっていた。

■本当の名前

それから大学を卒業して、さらに3年が経った頃だ。その頃の僕は新卒で入った会社を辞め、ライターとしての仕事にはありつきつつもそれ1本では食えないといった状況。社会的にいえば「フラフラしていた」と言うほかない時期にあった。
そんな折、あのおんぼろビジネスホテルの副社長から電話があった。
今晩出勤予定の子が急に来られなくなって他に頼れる人がいないんだけど、代わりに出勤してくれないかということだった。フラフラと相談に乗った。

久しぶりの我らがおんぼろビジネスホテルは何も変わっていなかった。バイトの人材も相変わらずモラトリアム全開の馬鹿大学生、うちの大学の後輩たちだ。
とはいえもう在学時期のかぶっていない20歳にどう接しようかと気後れしていると、初対面の後輩は半ば羨望の眼差しで

「先輩、バイト中にフレンチトースト作ってたんですよね。伝説ですよ」

と話しかけてきた。
バイト先で好き勝手やっていた馬鹿丸出しのエピソードが語り継がれていること自体は心から恥じたけれど、妙な安心感もあった。このホテルがモラトリアムを延長してフラフラしている自分を許してくれる場のような心地がした。

「めちゃくちゃうまいって評判聞いてるんです。あとで作ってくださいよ」

満更でもない気分でレシピを思い出している中、来客があった。赤坂さんだった。

ただ様子がおかしくて、以前のように声はかけられなかった。彼女はスーツを着ていたのだ。何の遊び心も変哲もないビジネススーツ、それもメンズスーツだ。

少し遅れて、裏の駐車場に車を停めたスキンヘッド氏が入ってきた。こっちは何一つ変わらない風体でなんだかホッとした。スキンヘッド氏は見覚えのあるフロント係に気づいて「あっ」という顔をしたけれど、何か言いたげな顔で俯くばかりだった。どうした? 何があった?

赤坂さんはふらふらとフロントに歩み寄って、無言で宿泊名簿に記入しはじめた。以前であればヒールをかつかつと鳴らして威風堂々と歩いていたのが、明らかに不健康そうで、手が震えていた。動きにまるで生気がない。単に酔っているだけなのか?

一体何が起こっているのかわからなかった。覚えてますか、3年前ここでバイトしてた者です、とはとてもじゃないが言える雰囲気ではなかった。何かが、何かがおかしい!
鼓動が速くなるのを感じる。なんだか吐きそうだ。
赤坂さんがほとんど読み取れない、指に力の入っていない筆致で宿泊名簿に記入を進めるのを呆然と見ていた。しばらく待って、書き終えたものを受け取る。
氏名の欄には「友介」と書かれていた。

90412954 212442856508712 7840585755171749888 n

■バイバイフレンチトースト

突然黒く重たい緞帳が降りて視界を遮るような映像を幻視した。
ハッとして顔を上げる。けれど目は合わない。頑なに俯いたままこちらを見ようとしない。その様子を見て、彼女……彼……? は、このフロント係が顔見知りだということに気づいたうえで知らないふりを決め込んでいることを察した。
今の自分の状況について何も説明したくないのだ、今の自分を見られたくないのだ、というのは理解できたけれど、受け入れられない。あのかっこよかった彼女が、なんでこんな目に?

それでもやっぱり声をかけることはできなくて、部屋番号だけを告げてキーを渡した。
崩れそうな気分で、フロントを通り過ぎていく背中を追うことすらできなかった。
そんな事情を一切知らない後輩がにこにこして言う。

「で先輩、フレンチトーストどうしますか」

作ってくれ、という催促だ。でも僕にはもうあれは作れない。もう若く無防備なままではいられない。帰る場所だと思っていたところに戻れなくなったのを今知ってしまった。
能天気に自分だけ楽しくモラトリアムを引きずろうとしていたのが途端に申し訳なくなって、勝手に少しでも一緒に傷ついていたくなった。

言葉をどうにか絞り出そうとして、でも絞り出せなくて、
ギリギリ口をついて出た「もうだめだおれ」という曖昧な答えで誘いを断った。

そのあと後輩は仮眠時間に入り、しばし消灯したフロントで1人呆然としていると、スキンヘッド氏が煙草をつまんで階段を降りてきた。フロント前の喫煙所に腰掛けてこちらに会釈する。

とりいそぎ「お久しぶりです」とだけ声をかけると、にこりと強面が緩む。
彼の第一声が気になった。彼には言いたいことがあるはずだ。
時間が止まったような長い沈黙を経て彼が言ったのはこうだった。

「なんかさ、そうなんだよ」

何も言っていないのと同じような情報量のおかしな言葉選びだけれど、ずっしりと、こんなふうにしか言えない状況なんだろうということだけは伝わった。彼もきっと詳しい事情は知らされていないのだ。彼を問い詰めるのは違う。
それでも言わずにいられなくて、馬鹿大学生に戻ったみたいな素直な言葉選びで尋ねた。

「あの、どうしちゃったんですか、赤坂さん」

スキンヘッド氏は強面を歪めた。凄んだのではなくて、まるで泣き出す直前の子供のように無防備な顔になった。彼が次に言ったのが、今回の忘れられない一言だ。

「社長が最近、男なんだよ。……こんなのおかしいよォ」

■火をつけなかった煙草

スキンヘッド氏は目に涙を溜めて、流れ落ちるのを堪えて小刻みに震えながら、ありのままの言葉を吐き出した。
それ以上のことは聞けなくて、すすり泣く音が小さくロビーに反響するのをただ聞いていた。しばらくして彼は煙草に火をつけないまま部屋に戻った。

彼女を彼女でいさせないものの正体はわからない。
例えば、体調や年齢の関係で限界に行き当たって、治療を中断せざるを得ない状況に陥ったのか。
例えば、十分な治療の受けられる経済状況でいられなくなってしまったのか。
例えば、何か今までと比にならない蔑視を受けて心が挫けてしまったのか。
それとも、自ら選んで今の状態にあるのか。
わからないし詮索もしたくはない。

この物語はこのまま終わる。どこにも着地しない話だ。
もちろん本人があのスタイルに納得いっていて、まだ調整がうまくいっていなかったり、心の落とし所を探している過程だったりという可能性も十分にある。性表現や性自認の揺らぎ・移行は誰しもに起こりうるし、何ら責められるようなことではない。だから独善的に決めつけてかかるのは控えたいけれど、筆者もスキンヘッド氏同様、最後に会ったあの姿が彼女の望んだ姿とは思えなかった。何か抗えない力によってああいう選択をせざるを得ないのだとしたら、そうさせた何かに対して怒りが湧く。杞憂であってほしい。
スキンヘッド氏ほど親密な関係性のない筆者には泣くことすらできなかった。ただただなすすべもなく突っ立っていた。

筆者の脳にはあの無力感が焼きついている。
トランスフォビア(※)にまつわる話題を見聞きするたびに繰り返し繰り返し思い出しているうちに焼きついた。それほど短い周期で繰り返し繰り返し何らかの事件が起こっていることを、長く界隈を観測している人なら認識しているだろう。
直近でいえば、J・K・ローリングをはじめとした一部のシス女性によるトランス女性への排他的な言動が大きな波紋を呼んでいる。

また、フェミニズムやジェンダーについて見識を深めているはずのアカデミシャン(※)の中の一部のシスジェンダー(※)の人にもこうしたトランスフォビアに偏った認識を持つ人が少なくないことがたびたび指摘されていて、問題の根は非常に深いところに張っている。

今回取り上げた赤坂さんの場合がどういった属性の層から受けた苦難なのか、そもそもトランスフォビアによる苦難なのか、さらにそもそも本人にとって実際に苦難であるのかすらも、筆者や秘書の彼にはわからない。だから思考の向き先がわからず、今も新しい知識を得るたびに思い出して自問自答を繰り返している。

当事者じゃないからわからない、当事者と触れ合ったことがないからわからない、という状況に対する何よりの対抗策こそがまさにアカデミックな知識であるはずだ。自分の実体験の範囲では共感できないことに対する想像力を養う機能は学問の主たる意義のはずだ。
ただ前述のとおり、アカデミシャンであっても蔑視を蔑視と認識せずに表明しているケースは大いにある。だから、感情移入して想像力を働かせる導入に役立つかもしれないと思ってこの文章を書いた。アカデミックな論考でなくエモーションに訴えるエッセイの形をとったこと自体、知性の敗北を感じる部分もある。ただもう手段を選んでいる場合ではないという危機感のほうが強かった。100%はありえないと自戒しつつ、この文章が当事者をはじめ誰にとっても人生を邪魔しないものであることを切に願っている。

また今回のケースは、あくまで”おそらく”女性的とされる性表現をとる、それもドラァグな文脈に基づくと思われる人についての話だ。何も断定できないし、この1つの物語をもってトランスパーソン全体に話を広げることはできない。さらに言えば、強烈な個性を持ったある人との出会いと別れの物語であり、その個性が仮に性にまつわる諸々を由来としていたとしても、個性的であることと性のあり方はまた別の話である。噛み砕くと、トランスパーソンであること自体は”個性的”ではないということを最後に強調したい。

こういった前提の部分で言葉の至らなかった初稿のブラッシュアップに協力してくれた友人知人たちへの感謝を最後に筆を置く。本当にありがとう、助かりました。

【註釈の註釈】
以下の註釈はあくまで”現在多くの場合そう認識されている”と思われる解釈を編集部判断で簡潔に記したものです。
ジェンダーにまつわる語彙には辞書でさえも正確な記述に至っていないものが多くあり、この註釈も手探りにならざるをえません。この註釈だけで理解を補完することはできないと思います。興味を持った方はぜひ、それぞれの言葉の指し示すものごとについて踏み込んで触れてみてほしいです。

※トランスパーソン:トランスジェンダーの属性を持つ人。トランスジェンダーとは身体に割り当てられた性と自認する性が異なる状態。

※キャンプ:過剰に特徴づけ模倣することで皮肉・批評として機能し、ときにそこから生まれる笑いによって既存の価値観を更新する表現様式。ドラァグカルチャーと結びつきが強い。

※ドラァグ:伝統的に特定の性役割と関連づけられる服装を、それとは異なるジェンダーを持つ者が着用すること。また、それに紐づいて発展した文化体系。

※シスジェンダー:身体に割り当てられた性と自認する性が一致する状態。

※アカデミシャン:学者、及び学究肌の人。アカデミックな知識を備えた人。

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