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カーク・ダグラスとアン・バイデンズのラブ・ストーリー

  • 2020.2.10
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今月5日、カーク・ダグラスが103歳で亡くなりました。アカデミー賞名誉賞受賞俳優であり、映画黄金期を代表する俳優だったダグラス氏は、60年以上にわたる妻のアン・バイデンズとの結婚生活でも、人々の記憶に残っています。 

ダグラス氏は、50年代から60年代にかけて爆発的な人気を誇ったスター。特に、シリアスなドラマや西部劇、戦争映画への出演で知られ、初期の主演映画には1960年の『スパルタカス』や1957年の『OK牧場の決斗』が。その後は、ディレクター、プロデューサー、作家としても活躍したダグラス氏を支え続けたのが、妻であるアンさんでした。

▲1989年にインターナショナルピースアワードのディナーに出席したカーク・ダグラス、アン・バイデンズ、マイケル・ダグラス。

 

もっとも、アンさんとの長く続いた結婚生活は、一目惚れで始まったわけではないそう。ふたりが1953年に初めて出会った時、ダグラス氏はすでに有名人。特に女性は、「鋼のような青い目」をした勇敢なヒーローを繰り返し演じるダグラス氏に夢中でした。それだけに、アンさんがダグラス氏のデートの誘いを断ったことは、衝撃だったのだとか。

当時、パリで映画の広報の仕事をしていたアンさん。友人のカメラマンに紹介されて、ダグラス氏に出会った場所は、映画『想い出』の撮影現場。共著『Kirk and Anne: Letters of Love, Laughter, and a Lifetime in Hollywood』に綴られたところによると、「彼は『さあさあ、危険な場所に連れて行ってあげよう』と言った」そう。

ダグラス氏が『ロサンゼルス・タイムズ』のインタビューで語ったところでは、「この若くて美しい女性をパリで一番ロマンチックな―そして、高級な―レストラン、『ラ・トゥール・ダルジャン』に連れて行こうと思ったんだ」「彼女はきっと僕の趣味や、土壇場で予約をとる力に好感を抱くと思ってね」とのこと。

▲1962年にロサンゼルスでパーティに出席したふたり。

 

ところが、これに対してアンさんは「ありがとう、結構よ。家に帰ってスクランブルエッグでも作るわ」と、予期せぬ返答。ダグラス氏が『USA Today』のインタビューで語ったところによると、「僕が出会った中で、一番難しい女性だったよ」「だって、僕は映画スターだったんだよ! それで彼女をディナーに誘ったのに、『あら、それはどうもありがとう、でも私は疲れてるの』」って言ったんだ」。

アンさんはその後もダグラス氏の広報係として働いたものの、ふたりの関係はプラトニックなまま。ダグラス氏が著書『Kirk and Anne』で語ったところよると、「僕が自分のことを話すのをやめ、彼女の声に耳を傾けるようになった」とき、その関係に変化が起きたのだとか。

典型的な映画スターとちがい、変化することをいとわないダグラス氏に惹かれたというアンさん。最初のデートで、サーカスで開かれたチャリティ・ガラに出席した際、タキシードできめたダグラス氏が、ゾウの糞をすくうのを喜んで手伝う姿を見て、「あれにまいっちゃったの」「ただおかしかっただけじゃなくて、彼は自分に期待されていないこともできる人なんだとわかったのよ」(『USA Today』のインタビューに対して)。

 ▲1967年にロサンゼルスのパーティに出席した際のふたり。

 

やがて1954年5月に結婚し、その後はピーターとエリックの2人の息子が誕生。(ちなみに、ダグラス氏には、前妻で女優のダイアナ・ダグラスとの間に、マイケルとジョエルの2人の息子も。)著書『Kirk and Anne』には、ふたりの結婚生活の一端がうかがえる手紙が引用されています。こちらは、ミュンヘンでスタンリー・キューブリック監督の映画『突撃』の撮影していたダグラス氏が1957年に書いたもの。

「ダーリン、僕がいないのはどんな感じ? 君への愛が夜中の2時半に僕を起こして―このように―君に手紙を書かせています。家族がいないと僕はなんて不完全なんだろう。人間は一人で生きていけるものだろうか?自分自身のためだけに生きるなんて、死んでいるも同じだ。そうだ、君への思いにもう一度火をつけるためなら、君とのこの別れも歓迎するよ。早朝の時間は、僕の中の詩人を呼び覚ますんだ」

アンさんもまた、1956年5月にこんな手紙を送ったそう。「とても悲しくて落ち込んでいます。今ほどあなたのそばにいたかったことはないと思います」「トイレットペーパーが硬すぎる。コーヒーが強すぎる…電話は不可能。私、本当のアメリカ人みたいじゃない?でも、ヨーロッパの娘にしたって、一体全体、私はこんなところで何しているのかしら!!!」

▲1990年のふたりの写真。

 

こんな熱烈な手紙のやりとりをしていた一方で、浮き沈みも経験したふたり。著書『Kirk and Anne』には、ダグラス氏がリタ・ヘイワースやパトリシア・ニール、ジョーン・クロフォードの娘のクリスティーナ・クロフォードと関係を持ったことについても率直に書いてあり、「カークは浮気について私に隠し立てしようとしたことはなかった」「ヨーロッパ人として、私は結婚に完全なる貞節を期待することは非現実的だとわかった」とアンさん。それでも、ダグラス氏の愛を信じて、そのつど問題を解決してきたのだとか。

▲2013年にオスカーのパーティに出席した際のカーク・ダグラス。

 

アンさんの強い愛情が夫の命を救ったことも。1958年、ダグラス氏はエリザベス・テイラーの夫でプロデューサーのマイク・トッド氏に頼まれて、トッド氏が「ニューヨーク・フライアーズクラブ(ニューヨークにあるプライベートな社交クラブ)」から贈られる賞のプレゼンターを務めることに。ついては、パーム・スプリングスからニューヨークまで、トッド氏のプライベートジェットに同乗するよう招待されたのだとか。ところが、普段からプライベートジェットが嫌いなアンさん、どうにも「嫌な予感」がして、この旅行を中止するよう強く主張したのだとか。

アンさんの要求は激しいケンカに発展したものの、最終的にはニューヨーク行きを断念したダグラス氏。「彼女が言い張ってね」「大げんかになったよ。僕は『わかった、行かないよ』と言ったけれど、彼女に激怒していたんだ」(『USA Today』のインタビューに対して)。ところがその直後に、ラジオから、トッド氏の乗った飛行機が墜落し、乗客全員が死亡したとのニュースが。「彼女は僕の命を救ってくれたよ」。

▲1958年、トッド氏のお葬式で。

 

アンさんが救ったのは、ダグラス氏の命だけではありませんでした。ふたりが正式に交際を始めた1953年頃、ダグラス氏は自らの経済的な破綻に気づいていなかったそう。アンさんが彼のビジネスパートナーに事情を聞いて初めて、彼がほぼ無一文だとわかったのだとか。そこで、アンさんは父親から学んだビジネススキルを使い、ダグラス氏の給料を投資してくれる人を探し、彼のために財産を築いたとのこと。

その後はロサンゼルスでも有名な慈善家となったふたり。ホームレスの人々の保護施設である「Los Angeles Mission」では、長年サンクスギビング・ディナーをふるまっていたそう。この施設は、ダグラス氏が初めてロサンゼルスに来て、お金に困ったときに食事をもらった、思い出の場所だったのだとか。

ふたりは深い悲しみも経験しました。2004年、俳優でスタンダップ・コメディアンだった末の息子のエリック・ダグラスが、誤って薬物を過剰摂取し、46歳の若さで帰らぬ人に。他にも、アンさんの乳ガン、ダグラス氏の脳卒中とその後のうつ病など、数々の試練を受けながら、ふたりで立ち向かってきたのだとか。

▲2012年にキャッチされたふたり。

 

60年の結婚生活の後にも、色あせなかったふたりの愛。結婚50周年には、ふたりの夢だったという盛大なウエディング・パーティーを開き、再び愛を誓ったそう。

ダグラス氏の自伝である『Life Could Be Verse』には、「ロマンスは80で始まる」と題した詩が。ここでも、妻への愛は、年を経る毎に増すばかりだと綴られています。

 

ロマンスは80で始まる
そして僕は知るべきだ
そのことを教えてくれるのは
僕がともに暮らす女の子だということを

―カーク・ダグラス

翻訳/mayuko akimoto Photo Getty Images From TOWN&COUNTRY

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