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【TAO連載vol.14】数字の呪縛。

  • 2019.10.25
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日本の情報番組などを見ていると、報道されている人物の名前の後に(年齢)が表示される。

一見当たり前のことのように見えるが、これが数年前から不思議で不思議でたまらない。何かの成績表のような気がして、あの(年齢)というものに恐怖すら抱いている。

言わずと知れた話だが、海外、特にアメリカでは人に年齢を聞いたりすることはしない。(友だちになれば別だが)失礼だからというよりも、それに付随してくる評価基準みたいなものがないのだ。

日本だと、「20代前半なのにしっかりしているね」とか、「40代なのに若々しいね」などと、その年齢なら、だいたいこうであろうという目に見えないデーターベースに沿ってその人を数字と照らし合わせ、知らず知らずのうちに他人を評価している。

それは日本の社会に深く根付いている、この年齢までに自立し、家族を持ち、出世しなければいけないという先人たちが敷いていった”レール”から逸れないように生きようという、人生の価値観に基づいている気がする。

日本はいま高校進学率が97%以上。その中で飛び級システムもないとすれば、18歳までの学校教育での経験値というものはさほど個人差が出ないのかもしれない。そしてそれが「平均」や「年相応」とされ、それに満たなかったり、超えていたりすると「18歳なのに幼い」「18歳なのにしっかりしている」などという数字によって、人の評価が生まれる。

いっぽうアメリカはというと飛び級システムもあるし、多民族国家なため、一概に「18歳だからこうあるべき」などという常識が通用しない。したがって年齢とは、聞かなくてもいい無意味な情報とされるのだ。仕事の履歴書などにも書かなくていい事項となっている。日本では考えられないだろう。

30歳なんだからもう夢なんて追いかけてられない。そろそろ結婚しないと。子どもは何歳までに産まないと……。

「平均」というものから逸れることを良しとされない日本特有の考え方、呪いにかかってしまっているのではないか。

「年齢なんてただの数字だ」

よく聞く言葉だ。私もアメリカ生活11年目にして、上記した「年齢のからくり」がわかっているつもりなのだが、日本で育ったせいかやはり気にしてしまう。

もちろん初対面の人に年齢を聞くことはしないが、たとえば40代の友人に新しいガールフレンドができたと聞いたら「彼女何歳なの? 20代? 若いねー!」などとコメントしてしまったりする。そうする度に、ああ、またやってしまった、と自己嫌悪に陥るのだがなかなか自分の中から出て行ってくれない価値観なのだ。

それによって得をするのならいいのだが、必ずと言っていいほどネガティブにしか働かない。

最近は映画やテレビを見ていていいなと思う女優さんを見つけると、年齢を検索してしまう。そして自分より若いと「若いのにすごいなー」、自分より年上だと「自分が彼女の年齢になるまでにあんな仕事がしたいなー」となり、最悪なのが自分と同じ年だった場合である。「同い年の彼女はあんなに素晴らしい結果が残せているのに、私ときたら!」と相手と自分を比べて無意味に焦りだす。

でも、よく考えたら同じなのは年齢という数字だけで、生まれた場所も環境も、芝居を始めた年も経験も何も知らないのに、そこだけ見てあたふたしているのだ。こんなトンチンカンなことはない。

日本にはアラサー、アラフォー、アラフィフなんて言葉まであり、年齢で束ねるようなことをしては、自分の首を絞めるという不思議な現象まで起こっている。

早いところ、この数字の呪縛から逃れないと、他人の本質が見抜けなかったり、自分の可能性や能力を減退させてしまうことになりかねない。

ということでまず日本のメディアの皆さん。名前(年齢)という表記……やめにしませんか?

先日訪れたアリゾナ州のセドナでは、2000万年前からとも言わている積み上げられた地層からなる山々を見て、年月を重ねることは美しいことだと再認識!

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